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北海道札幌南高等学校の出身者
1 | 村中孝次 旭川市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
村中 孝次(むらなか たかじ[注釈 1]、1903年10月3日 - 1937年8月19日)は、日本の陸軍軍人で皇道派、国家社会主義者。 | ||
北海道札幌南高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 旭川市の出身者 | ||
10月3日生まれの人  1903年生まれの人 | ||
2 | 小原重孝 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1971年7月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。小原 重厚と表記する文献も有る。 | ||
北海道札幌南高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月24日生まれの人  1899年生まれの人 | ||
3 | 真田穣一郎 美唄市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1957年(昭和32年)8月3日)は、日本の陸軍軍人。 | ||
北海道札幌南高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 美唄市の出身者 | ||
11月21日生まれの人  1897年生まれの人 | ||
4 | 工藤良一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日 - 1959年1月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
北海道札幌南高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月2日生まれの人  1896年生まれの人 | ||
5 | 大須賀応 札幌市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
大須賀 応(おおすが ことを、1894年1月25日 - 1945年3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
北海道札幌南高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 札幌市の出身者 | ||
1月25日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
6 | 安東昌喬 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年5月28日 - 1956年4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
北海道札幌南高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
5月28日生まれの人  1880年生まれの人 |
北海道小樽潮陵高等学校の出身者
7 | 久保登喜夫 小樽市 | Wikipedia |
久保 登喜夫(くぼ ときお、1921年 - 1945年4月28日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ、ノルディック複合選手。大日本帝国海軍軍人。神風特別攻撃隊隊員として戦死した悲劇のジャンプ選手として有名である。 | ||
小樽市の出身者 | ||
1921年生まれの人 |
北海道旭川東高等学校の出身者
8 | 加藤建夫 旭川市 | Wikipedia |
加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28日 - 1942年(昭和17年)5月22日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等功二級。北海道上川郡東旭川村(現:旭川市東旭川町)出身。旭川中学(現:北海道旭川東高等学校)、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校(専科)卒。 | ||
旭川市の出身者 | ||
9月28日生まれの人  1903年生まれの人 | ||
9 | 有末次 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
有末 次(ありすえ やどる、1897年2月7日 - 1943年8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
北海道旭川東高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
2月7日生まれの人  1897年生まれの人 | ||
10 | 有末精三 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
有末 精三(ありすえ せいぞう、1895年(明治28年)5月22日 - 1992年(平成4年)2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
北海道旭川東高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
5月22日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
11 | 中永太郎 中永太郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
中 永太郎(なか えいたろう、1893年9月17日 - 1969年4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
北海道旭川東高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 中永太郎の出身者 | ||
9月17日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
12 | 尾崎義春 旭川市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
尾崎 義春(おざき よしはる、1890年4月20日 - 1973年9月19日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。北海道旭川市出身。 | ||
北海道旭川東高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 旭川市の出身者 | ||
4月20日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
13 | 河田槌太郎 | Wikipedia |
河田 槌太郎(かわだ つちたろう、1889年(明治22年)8月20日 - 1964年(昭和39年)2月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
8月20日生まれの人  1889年生まれの人 |
北海道室蘭栄高等学校の出身者
14 | 国定謙男 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
国定 謙男(くにさだ かねお、1913年(大正2年)2月10日 - 1945年(昭和20年)8月22日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争の敗戦を受けて、一家四人で自決した海軍少佐である。 | ||
北海道室蘭栄高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月10日生まれの人  1913年生まれの人 |
青森県立青森高等学校の出身者
15 | 山田幸五郎 青森市 東京帝国大学へ進学 | Wikipedia |
山田 幸五郎(やまだ こうごろう、1889年9月10日 - 1982年7月23日)は、日本光学界の先駆者、海軍軍人、理学博士。最終階級は海軍技術少将。主に幾何光学中心に、光学機械、光学兵器の開発に寄与した。 | ||
青森県立青森高等学校から東京帝国大学への進学者 全国の東京帝国大学の出身者 青森市の出身者 | ||
9月10日生まれの人  1889年生まれの人 |
青森県立弘前高等学校の出身者
16 | 中村良三 弘前市 | Wikipedia |
中村 良三(なかむら りょうぞう、1878年(明治11年)7月26日-1945年(昭和20年)3月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将、位階勲等は正三位 勲一等 功五級。米内内閣の内閣参議。 | ||
弘前市の出身者 | ||
7月26日生まれの人  1878年生まれの人 |
青森県立八戸高等学校の出身者
17 | 巻石蔵(軍人、元海軍大尉、秋山時代に活躍した元八戸市 | Wikipedia未登録 |
軍人、元海軍大尉、秋山時代に活躍した元八戸市助役[5] |
東奥義塾高等学校の出身者
18 | 一戸兵衛 弘前市 学習院大学へ進学 | Wikipedia |
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、安政2年6月20日(1855年8月2日) - 1931年(昭和6年)9月2日)は、日本陸軍の軍人。教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。官位は陸軍大将従二位勲一等功二級。 | ||
東奥義塾高等学校から学習院大学への進学者 全国の学習院大学の出身者 弘前市の出身者 | ||
8月2日生まれの人  1855年生まれの人 |
岩手県立一関第一高等学校の出身者
19 | 阿部勝雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
阿部 勝雄(あべ かつお、1891年4月18日 - 1948年5月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
岩手県立一関第一高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
4月18日生まれの人  1891年生まれの人 |
20 | 相沢三郎 仙台市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年(明治22年)9月6日 - 1936年(昭和11年)7月3日)は、日本の陸軍軍人。皇道派に属した相沢は、真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し1935年8月12日に統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した(相沢事件)。 | ||
岩手県立一関第一高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 仙台市の出身者 | ||
9月6日生まれの人  1889年生まれの人 |
岩手県立遠野高等学校の出身者
21 | 小野寺信 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
小野寺 信(おのでら まこと、1897年9月19日 - 1987年8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。 | ||
岩手県立遠野高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月19日生まれの人  1897年生まれの人 |
岩手県立盛岡第一高等学校の出身者
22 | 多田武雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
多田 武雄(ただ たけお、1890年10月7日 - 1953年3月3日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
岩手県立盛岡第一高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月7日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
23 | 板垣征四郎 岩手町 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年(明治18年)1月21日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位・勲一等・功二級。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 | ||
岩手県立盛岡第一高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 岩手町の出身者 | ||
1月21日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
24 | 及川古志郎 古志郡 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年(明治16年)2月8日 - 1958年(昭和33年)5月9日)は、日本の海軍軍人。新潟県古志郡出身。海兵31期。海軍大学校13期。最終階級は海軍大将。第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。 | ||
岩手県立盛岡第一高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 古志郡の出身者 | ||
2月8日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
25 | 米内光政 盛岡市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。第23代連合艦隊司令長官。第39-41、49-52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。 | ||
岩手県立盛岡第一高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 盛岡市の出身者 | ||
3月2日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
26 | 八角三郎 盛岡市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年(明治13年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将、衆議院議員。 | ||
岩手県立盛岡第一高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 盛岡市の出身者 | ||
12月19日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
27 | 長澤賢二郎 | Wikipedia未登録 |
軍人、陸軍少将、日本航空界の先達 |
宮城県仙台第二高等学校の出身者
28 | 万城目武雄 | Wikipedia |
万城目 武雄(まんじょうめ たけお、1891年1月25日 - 1975年3月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
1月25日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
29 | 東海林俊成 | Wikipedia |
東海林 俊成(しょうじ とししげ/としなり、1890年10月27日 - 1974年12月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
10月27日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
30 | 井上成美 | Wikipedia |
井上 成美(いのうえ しげよし/せいび[注釈 1]、1889年(明治22年)12月9日 - 1975年(昭和50年)12月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。海軍大将となった最後の軍人。 | ||
12月9日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
31 | 安藤利吉 | Wikipedia |
安藤 利吉(あんどう りきち、1884年(明治17年)4月3日 - 1946年(昭和21年)4月19日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級。陸軍士官学校16期、陸軍大学校26期(恩賜)。台湾総督(第19代)。 | ||
4月3日生まれの人  1884年生まれの人 |
宮城県角田高等学校の出身者
32 | 菅野直 角田市 | Wikipedia |
菅野 直(かんの なおし、1921年(大正10年)9月23日 - 1945年(昭和20年)8月1日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。太平洋戦争における撃墜王。戦死認定による二階級特進で最終階級は海軍中佐。 | ||
角田市の出身者 | ||
9月23日生まれの人  1921年生まれの人 | ||
33 | 保科善四郎 角田市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
保科 善四郎(ほしな ぜんしろう、1891年(明治24年)3月8日 - 1991年(平成3年)12月25日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将。衆議院議員を4期務めた後、財団法人日本国防協会会長。 | ||
宮城県角田高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 角田市の出身者 | ||
3月8日生まれの人  1891年生まれの人 |
秋田県立秋田高等学校の出身者
34 | 西村祥治 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11月30日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。秋田県出身。 | ||
秋田県立秋田高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月30日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
35 | 安藤忠一郎 | Wikipedia |
安藤 忠一郎(あんどう ちゅういちろう、1887年(明治20年)11月9日 - 1954年(昭和29年)1月11日)は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
11月9日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
36 | 後藤英次 | Wikipedia |
後藤 英次(ごとう えいじ、1887年11月5日 - 1967年11月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
11月5日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
37 | 上村清太郎 | Wikipedia |
上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)10月15日 - 1947年(昭和22年)3月11日)は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
10月15日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
38 | 須田實 | Wikipedia |
須田 實(すだ みのる、1880年(明治13年)10月30日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
10月30日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
39 | 長嶺俊之助 | Wikipedia |
長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)1月12日 - 1945年(昭和20年)11月29日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
1月12日生まれの人  1875年生まれの人 |
秋田県立横手高等学校の出身者
40 | 西村祥治 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11月30日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。秋田県出身。 | ||
秋田県立横手高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月30日生まれの人  1889年生まれの人 |
山形県立山形東高等学校の出身者
41 | 内藤雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
内藤 雄(ないとう たけし、1903年(明治36年)8月17日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人(海兵52期、海大36期卒)。太平洋戦争において艦隊参謀職を歴任した後、海軍乙事件で殉職。殉職による一階級昇進で最終階級は海軍大佐。 | ||
山形県立山形東高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月17日生まれの人  1903年生まれの人 | ||
42 | 川井巌 山形市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
川井 巌(かわい いわお、1896年(明治29年)9月2日 - 1972年(昭和47年)5月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。山形県山形市出身。 | ||
山形県立山形東高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 山形市の出身者 | ||
9月2日生まれの人  1896年生まれの人 | ||
43 | 小磯國昭 宇都宮市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。 | ||
山形県立山形東高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 宇都宮市の出身者 | ||
3月22日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
44 | 瀬川章友 新庄市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
瀬川 章友(せがわ のりとも、1879年(明治12年)3月6日 - 1938年(昭和13年)2月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
山形県立山形東高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 新庄市の出身者 | ||
3月6日生まれの人  1879年生まれの人 |
山形県立新庄北高等学校の出身者
45 | 小磯國昭 宇都宮市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。 | ||
山形県立新庄北高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 宇都宮市の出身者 | ||
3月22日生まれの人  1880年生まれの人 |
山形県立米沢興譲館高等学校の出身者
46 | 工藤俊作 高畠町 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 – 1979年(昭和54年)1月12日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中佐。1942年3月、駆逐艦「雷」艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として有名である。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 高畠町の出身者 | ||
1月7日生まれの人  1901年生まれの人 | ||
47 | 近野信雄 | Wikipedia |
近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 1944年3月13日)は、山形県出身の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校48期卒業。太平洋戦争中に護送船団を指揮するが戦死。最終階級は海軍少将。従四位勳二等。米沢海軍武官会会員。 | ||
7月23日生まれの人  1899年生まれの人 | ||
48 | 山田勇助 | Wikipedia |
山田 勇助(やまだ ゆうすけ、1899年(明治32年)2月22日 - 1942年(昭和17年)11月13日)は、日本の海軍軍人。水雷艇「千鳥」艇長として友鶴事件に際会。太平洋戦争において第六駆逐隊司令として第三次ソロモン海戦で戦死した。最終階級は海軍少将。 | ||
2月22日生まれの人  1899年生まれの人 | ||
49 | 小林仁 米沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
小林 仁(こばやし まさみ/まさし、1890年6月18日 - 1977年8月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身。山形県立米沢中学校、海軍兵学校(38期)卒業。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 米沢市の出身者 | ||
6月18日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
50 | 南雲忠一 米沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年(明治20年)3月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。最終階級は海軍大将。サイパン島において自決。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 米沢市の出身者 | ||
3月25日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
51 | 片桐英吉 米沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
片桐 英吉(かたぎり えいきち、1885年9月24日 - 1972年8月16日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 米沢市の出身者 | ||
9月24日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
52 | 下村正助 米沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1月9日 - 1953年(昭和28年)7月30日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 米沢市の出身者 | ||
1月9日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
53 | 下村忠助 米沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉10月8日 - 1916年〈大正5年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で観戦武官として戦死した海軍中佐である。海大甲種10期首席。正六位勲四等功四級。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 米沢市の出身者 | ||
10月8日生まれの人  1881年生まれの人 | ||
54 | 今村信次郎 米沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)12月4日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 米沢市の出身者 | ||
12月4日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
55 | 千坂智次郎 米沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
千坂 智次郎(ちさか ちじろう、慶応4年2月15日(1868年3月8日) - 昭和11年(1936年)2月23日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 米沢市の出身者 | ||
3月8日生まれの人  1868年生まれの人 | ||
56 | 黒井悌次郎 米沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日(1866年7月4日) - 昭和12年(1937年)4月29日)は明治から大正期の日本の海軍軍人。海軍大将。山形県出身。なお、江戸時代の米沢藩士・黒井忠寄との関係は不詳。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 米沢市の出身者 | ||
7月4日生まれの人  1866年生まれの人 | ||
57 | 上泉徳弥 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1946年11月27日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月13日生まれの人  1865年生まれの人 | ||
58 | 山下源太郎 米沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
山下 源太郎(やました げんたろう、文久3年7月30日(1863年8月26日) - 昭和6年(1931年)2月18日)は、明治、大正時代の日本海軍軍人、華族。位階・勲等・功級・爵位は、海軍大将・正二位・勲一等・功三級・男爵。日露戦争時の軍令部作戦班長(のちの作戦部長)、連合艦隊司令長官、軍令部長などを歴任した。 | ||
山形県立米沢興譲館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 米沢市の出身者 | ||
8月26日生まれの人  1863年生まれの人 |
福島県立安積高等学校の出身者
59 | 植松練磨 南相馬市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 1948年8月22日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。 | ||
福島県立安積高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 南相馬市の出身者 | ||
4月30日生まれの人  1883年生まれの人 |
60 | 武川寿輔 福良村 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月15日 - 1939年(昭和14年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、教育者。最終階級は陸軍少将、兵庫県立赤穂中学校(現:兵庫県立赤穂高等学校)の初代校長。 | ||
福島県立安積高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 福良村の出身者 | ||
11月15日生まれの人  1877年生まれの人 |
福島県立喜多方高等学校の出身者
61 | 高畑辰雄 | Wikipedia |
高畑 辰雄(たかはた たつお、生年不明 - 1943年(昭和18年)4月7日)は、日本の海軍軍人。海兵64期。太平洋戦争において582空艦爆隊長として「い号作戦」に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 | ||
62 | 風間万年 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
風間 万年[* 1](かざま まんねん、生年不明 - 1945年(昭和20年)1月3日または1月4日)は、日本の海軍軍人。神風特別攻撃隊旭日隊の指揮官であり、特攻により戦死したが、その作戦行動については資料によって異同がある。二階級特進により最終階級は海軍少佐。 | ||
福島県立喜多方高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 |
福島県立磐城高等学校の出身者
63 | 吉田英三 吉田英三へ進学 | Wikipedia |
吉田 英三(よしだ ひでみ、1902年(明治35年)3月5日 - 1978年(昭和53年)4月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大佐、海将。 | ||
福島県立磐城高等学校から吉田英三への進学者 全国の吉田英三の出身者 | ||
3月5日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
64 | 菊池朝三 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
菊池 朝三(きくち ともぞう、1896年11月22日 - 1988年1月31日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。茨城県土浦市議会議員。 | ||
福島県立磐城高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月22日生まれの人  1896年生まれの人 | ||
65 | 高木武雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
高木 武雄(たかぎ たけお、1892年(明治25年)1月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。福島県石城郡大野村(現・いわき市)出身 。磐城中学校(現福島県立磐城高等学校)卒。海軍兵学校(39期)、海軍大学校(23期)卒業。幼少のころから頭脳明晰で、同期中最年少の少尉任官であった。海軍兵学校同期に伊藤整一、遠藤喜一、阿部弘毅、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 | ||
福島県立磐城高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1月25日生まれの人  1892年生まれの人 |
福島県立相馬高等学校の出身者
66 | 柴田武雄 | Wikipedia |
柴田 武雄(しばた たけお、1904年(明治37年)2月20日 - 1994年(平成6年)8月11日)は、日本の海軍軍人、宗教家。福島県相馬郡出身。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 | ||
2月20日生まれの人  1904年生まれの人 | ||
67 | 高橋伊望 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月20日 - 1947年(昭和22年)3月18日)は日本の海軍軍人。太平洋戦争において司令長官職を歴任した海軍中将である。 | ||
福島県立相馬高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
4月20日生まれの人  1888年生まれの人 |
学校法人石川高等学校の出身者
68 | 鹿岡円平 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月11日 - 1944年(昭和19年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
学校法人石川高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
4月11日生まれの人  1901年生まれの人 |
福島県立福島高等学校の出身者
69 | 長澤浩 福島市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
長澤 浩(ながさわ こう、1900年(明治33年)12月29日 - 1967年(昭和42年)4月17日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海軍兵学校(第49期)卒。第2代海上幕僚長。 | ||
福島県立福島高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 福島市の出身者 | ||
12月29日生まれの人  1900年生まれの人 |
茨城県立水戸第一高等学校の出身者
70 | 勝山淳 | Wikipedia |
勝山 淳(かつやま じゅん、1924年(大正13年)11月11日 - 1945年(昭和20年)7月24日)は、日本の海軍軍人。海兵73期。太平洋戦争の末期、人間魚雷「回天」で出撃し、米護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈した。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少佐。 | ||
11月11日生まれの人  1924年生まれの人 | ||
71 | 井川省 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
井川 省(いがわ せい、1913年4月14日 - 1946年)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにインドシナ戦争に参加して戦没。 | ||
茨城県立水戸第一高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
4月14日生まれの人  1913年生まれの人 | ||
72 | 永井八津次 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月20日 - 1970年(昭和45年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
茨城県立水戸第一高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月20日生まれの人  1901年生まれの人 | ||
73 | 谷萩那華雄 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
谷萩 那華雄(やはぎ なかお、1895年(明治28年)8月9日 - 1949年(昭和24年)7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
茨城県立水戸第一高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
8月9日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
74 | 栗田健男 水戸市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
栗田健男(くりた たけお、1889年4月28日 - 1977年12月19日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校38期卒業。 | ||
茨城県立水戸第一高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 水戸市の出身者 | ||
4月28日生まれの人  1889年生まれの人 |
茨城県立土浦第一高等学校の出身者
75 | 川並密 | Wikipedia |
川並 密(かわなみ ひそか/みつ、1891年(明治24年)3月22日 - 1978年(昭和53年)11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
3月22日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
76 | 武井大助 一橋大学へ進学 | Wikipedia |
武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月25日 - 1972年(昭和47年)3月30日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍主計中将。昭和産業・安田銀行・文化放送の元社長。1940年勲一等旭日大綬章受章。 | ||
茨城県立土浦第一高等学校から一橋大学への進学者 全国の一橋大学の出身者 | ||
4月25日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
77 | 高須四郎 | Wikipedia |
高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 1944年9月2日)は、日本の海軍軍人。海兵35期。最終階級は海軍大将。 | ||
10月27日生まれの人  1884年生まれの人 |
茨城県立下妻第一高等学校の出身者
78 | 柴山兼四郎 | Wikipedia |
柴山 兼四郎(しばやま けんしろう、1889年5月1日 - 1956年1月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
5月1日生まれの人  1889年生まれの人 |
茨城県立太田第一高等学校の出身者
79 | 生田目修 | Wikipedia |
生田目 修(なまため おさむ、1924年(大正13年)8月24日 - 1999年(平成11年)6月20日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官、第16代航空幕僚長。 | ||
8月24日生まれの人  1924年生まれの人 |
80 | 沼田徳重 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月17日 - 1939年(昭和14年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正四位勲一等功二級。茨城県出身。 | ||
茨城県立太田第一高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月17日生まれの人  1887年生まれの人 |
栃木県立宇都宮高等学校の出身者
81 | 廣田和民 | Wikipedia |
廣田 和民(ひろた やすたみ、1922年(大正11年)5月5日 - 2008年(平成20年)5月10日)は、元日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍主計少佐。 | ||
5月5日生まれの人  1922年生まれの人 | ||
82 | 安藤輝三 | Wikipedia |
安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。 | ||
2月25日生まれの人  1905年生まれの人 | ||
83 | 麦倉俊三郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21年)11月1日 - 1969年(昭和44年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
栃木県立宇都宮高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月1日生まれの人  1888年生まれの人 | ||
84 | 西義一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
西 義一(にし よしかず、明治11年(1878年)1月1日 - 昭和16年(1941年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級。 | ||
栃木県立宇都宮高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月1日生まれの人  1878年生まれの人 |
作新学院高等学校の出身者
85 | 篠原弘道 宇都宮市 | Wikipedia |
篠原 弘道(しのはら ひろみち/こうどう、1913年(大正2年)8月15日 - 1939年(昭和14年)8月27日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少尉。通り名・異名は「東洋のリヒトホーフェン」。名前の読み方については新聞や書物には全て「ひろみち」と記載されているが、甥の話によれば「こうどう」が正しい読みであるという。 | ||
宇都宮市の出身者 | ||
8月15日生まれの人  1913年生まれの人 |
群馬県立沼田高等学校の出身者
86 | 東宮鉄男 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
東宮 鉄男(とうみや かねお、正字は東宮鐵男、1892年(明治24年)8月17日 - 1937年(昭和12年)11月14日)は、日本の陸軍軍人。「満蒙開拓移民の父」とよばれる。 | ||
群馬県立沼田高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
8月17日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
87 | 山崎保代 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
山崎 保代(やまさき やすよ、1891年10月17日 - 1943年5月29日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争(大東亜戦争)中に、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。 | ||
群馬県立沼田高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月17日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
88 | 井上二三雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
井上 二三雄(いのうえ ふみお)、1883年(明治16年)12月25日 - 1919年(大正8年)3月5日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人で、第一次世界大戦において日本初の航空作戦に参戦し、のちに殉職した。最終階級は海軍中佐。井上日召は弟。 | ||
群馬県立沼田高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
12月25日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
89 | 角田政之助 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
角田 政之助(つのだ まさのすけ、1882年(明治15年)10月18日 - 1974年(昭和49年)1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
群馬県立沼田高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月18日生まれの人  1882年生まれの人 |
群馬県立館林高等学校の出身者
90 | 島田豊作 館林市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
島田 豊作(しまだ とよさく、1912年3月31日 - 1988年7月11日)は、日本の陸軍軍人。士候45期。最終階級は陸軍中佐。群馬県館林市出身。 | ||
群馬県立館林高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 館林市の出身者 | ||
3月31日生まれの人  1912年生まれの人 |
群馬県立渋川高等学校の出身者
91 | 小渕岩太郎 陸軍中野学校へ進学 | Wikipedia |
小渕岩太郎(おぶち いわたろう)は、日本の軍人・実業家・政治運動家。元光山社代表取締役会長、日本工業大学後援会会長。群馬県吾妻郡中之条町出身。 | ||
群馬県立渋川高等学校から陸軍中野学校への進学者 全国の陸軍中野学校の出身者 |
群馬県立富岡高等学校の出身者
92 | 黛治夫 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
黛 治夫(まゆずみ はるお、1899年10月2日 - 1992年10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 | ||
群馬県立富岡高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月2日生まれの人  1899年生まれの人 |
埼玉県立不動岡高等学校の出身者
93 | 三田一也 東京海洋大学へ進学 | Wikipedia |
三田 一也(みた かずや)は日本の元船員、元海軍軍人(予備将校)、元海上保安官。最終階級は、海軍では海軍中佐。海上保安庁では警備救難監(海上保安官の最高位)、海上保安庁次長。戦後、海上自衛隊復活を討議した「Y委員会」の主要メンバー。一貫して再軍備には反対の立場を取った。埼玉県羽生市出身。不動岡中学(後の埼玉県立不動岡高等学校卒業)。 | ||
埼玉県立不動岡高等学校から東京海洋大学への進学者 全国の東京海洋大学の出身者 |
千葉県立千葉高等学校の出身者
94 | 大野博 船橋市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
大野 博(おおの ひろし、1911年 - 1939年(昭和14年)2月2日)は、日本の海軍軍人、海軍少佐。現在の千葉県船橋市出身で、父 大野善兵衛、母 正子の二男として生まれる。父は製麩業のかたわら、船橋町議などをつとめた。 | ||
千葉県立千葉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 船橋市の出身者 | ||
1911年生まれの人 | ||
95 | 石井四郎 芝山町 京都帝国大学へ進学 | Wikipedia |
石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。最終階級は陸軍軍医中将。功四級、医学博士。731部隊の創設者として防疫活動や細菌戦の研究・実戦、人体実験を中国で行った。 | ||
千葉県立千葉高等学校から京都帝国大学への進学者 全国の京都帝国大学の出身者 芝山町の出身者 | ||
6月25日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
96 | 大田実 長柄町 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
大田 實(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 - 1945年(昭和20年)6月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。 | ||
千葉県立千葉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
4月7日生まれの人  1891年生まれの人 |
千葉県立長生高等学校の出身者
97 | 柴勝男 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
柴 勝男(しば かつお、1901年9月4日 - 1970年1月3日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。旧姓・阿部。千葉県出身。 | ||
千葉県立長生高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
9月4日生まれの人  1901年生まれの人 |
千葉県立佐倉高等学校の出身者
98 | 塚本素山 佐倉市 | Wikipedia |
塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1日 - 1982年(昭和57年)4月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。千葉県出身。陸軍士官学校卒業。本名は塚本 清。 | ||
佐倉市の出身者 | ||
9月1日生まれの人  1907年生まれの人 | ||
99 | 檜貝襄治 佐倉市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
檜貝 嚢治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月20日 - 1943年(昭和18年)1月29日)は、日本の海軍軍人。海兵57期。太平洋戦争(大東亜戦争)時における爆撃機の名パイロットで霞空飛行隊長、七〇一空飛行長を歴任。檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃等を指揮、多大な戦果をもたらした。七〇五空飛行長の三原元一少佐とともに陸攻隊の双璧といわれた。レンネル島沖海戦において被弾後、敵艦へ突撃。戦死による二階級特進で最終階級は海軍大佐。 | ||
千葉県立佐倉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 佐倉市の出身者 | ||
11月20日生まれの人  1906年生まれの人 |
100 | 赤井春海 佐倉市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 1954年12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
千葉県立佐倉高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 佐倉市の出身者 | ||
6月12日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
101 | 桜井規矩之左右 佐倉市 | Wikipedia |
桜井 規矩之左右(さくらい きくのぞう、嘉永元年6月6日(1848年7月6日) - 大正元年(1912年)11月27日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校3期。最終階級は海軍少将。海軍砲術学校長、巡洋艦「比叡」「松島」「千歳」「橋立」の艦長を歴任。 | ||
佐倉市の出身者 | ||
6月6日生まれの人  1848年生まれの人 | ||
102 | 大築尚志 佐倉市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
大築 尚志(おおつき たかゆき、1835年12月24日(天保6年11月5日) - 1900年(明治33年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。幼名、保太郎(やすたろう)。 | ||
千葉県立佐倉高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 佐倉市の出身者 | ||
12月24日生まれの人  1835年生まれの人 | ||
103 | 吉見精 佐倉市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
吉見 精(よしみ せい、生年不明 - 1901年1月)は、日本の陸軍軍人。旧大日本帝国陸軍鉄道大隊の初代大隊長。旧佐倉藩士。千葉県出身。 | ||
千葉県立佐倉高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 佐倉市の出身者 | ||
104 | 桜井重寿 | Wikipedia未登録 |
軍人・旧大日本帝国陸軍少将・舞鶴要塞司令官 | ||
105 | 兼坂隆 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia未登録 |
軍人・旧大日本帝国海軍中将・装甲巡洋艦八雲艦長・大湊要港部司令官 | ||
千葉県立佐倉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
106 | 丹治寛雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia未登録 |
軍人・旧大日本帝国海軍少将・防衛巡洋艦吉野艦長・横須賀海兵団長 | ||
千葉県立佐倉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
107 | 山崎嘉吉 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia未登録 |
軍人・旧大日本帝国海軍大佐・隅田艦長 | ||
千葉県立佐倉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
108 | 湯村文男 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia未登録 |
軍人・旧大日本帝国海軍大尉・第二特別陸戦隊第一中隊長 | ||
千葉県立佐倉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
109 | 林利房 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia未登録 |
軍人・旧大日本帝国海軍・駆逐艦「橘」艦長 | ||
千葉県立佐倉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
110 | 園原雄三 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia未登録 |
軍人・旧大日本帝国海軍少佐 | ||
千葉県立佐倉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 |
千葉県立成東高等学校の出身者
111 | 高品彪 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
高品 彪(たかしな たけし、1891年1月25日 - 1944年7月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期、陸大34期。最終階級は陸軍中将。 | ||
千葉県立成東高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月25日生まれの人  1891年生まれの人 |
東海大学付属浦安高等学校の出身者
112 | 栗原安秀 松江市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
栗原 安秀(くりはら やすひで、明治41年(1908年)11月17日 - 昭和11年(1936年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した。磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。最終階級は陸軍歩兵中尉。 | ||
東海大学付属浦安高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 松江市の出身者 | ||
11月17日生まれの人  1908年生まれの人 | ||
113 | 中橋基明 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
中橋 基明(なかはし もとあき、明治40年(1907年)9月25日 - 昭和11年(1936年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。 | ||
東海大学付属浦安高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月25日生まれの人  1907年生まれの人 |
筑波大学附属高等学校の出身者
114 | 佐薙毅 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 - 1990年(平成2年)3月14日)は、日本の海軍軍人及び航空自衛官、第2代航空幕僚長。海軍の最終階級は海軍大佐。自衛隊の最終階級は航空幕僚長たる空将。 | ||
筑波大学附属高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月8日生まれの人  1901年生まれの人 | ||
115 | 徳川宗敬 文京区 東京大学へ進学 | Wikipedia |
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。 | ||
筑波大学附属高等学校から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 文京区の出身者 | ||
5月31日生まれの人  1897年生まれの人 | ||
116 | 亀井凱夫 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
亀井 凱夫(かめい よしお、1896年(明治29年)3月21日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、日本の海軍軍人で戦闘機搭乗員。津和野藩主・亀井氏の一族で、戸籍上は亀井貫一郎 の義兄となるが血縁上は実弟。革新官僚の毛里英於菟は義弟。吉良俊一に続き空母への着艦を成功させ、また夜間における空母着艦を成し遂げた。太平洋戦争において航空隊司令として歴戦し戦死。最終階級は海軍少将である。 | ||
筑波大学附属高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
3月21日生まれの人  1896年生まれの人 | ||
117 | 大野竹二 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
大野 竹二(おおの たけじ、1894年10月1日 - 1976年12月18日)は、日本海軍の軍人。 戦艦「大和」第4代艦長。最終階級は海軍少将。 | ||
筑波大学附属高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月1日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
118 | 伊集院松治 千代田区 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
伊集院 松治(いじゅういん まつじ、1893年(明治26年)4月21日 - 1944年(昭和19年)5月24日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。 | ||
筑波大学附属高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 千代田区の出身者 | ||
4月21日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
119 | 徳川圀順 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
徳川 圀順(とくがわ くにゆき、1886年(明治19年)12月13日 - 1969年(昭和44年)11月17日)は、日本の華族、政治家、陸軍軍人。水戸徳川家第13代当主。貴族院議長、日本赤十字社社長を務める。階級は陸軍歩兵少尉、爵位は侯爵、のち公爵。徳川光圀以来編纂を続けていた歴史書『大日本史』を完成させる。字は子行、号は涛山、諡号は明公。 | ||
筑波大学附属高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月13日生まれの人  1886年生まれの人 |
120 | 平田昇 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958年5月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
筑波大学附属高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
12月1日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
121 | 永持源次 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
永持 源次(ながもち げんじ、1884年7月23日 - 1978年8月18日)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍砲工学校長。最終階級は陸軍中将。 | ||
筑波大学附属高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月23日生まれの人  1884年生まれの人 | ||
122 | 徳川好敏 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月24日 - 1963年(昭和38年)4月17日)は、日本の陸軍軍人、華族。 | ||
筑波大学附属高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月24日生まれの人  1884年生まれの人 | ||
123 | 穂積律之助 東京大学へ進学 | Wikipedia |
穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8月13日 – 1959年(昭和34年)2月23日)は、日本の工学者、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍造船少将。 | ||
筑波大学附属高等学校から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 | ||
8月13日生まれの人  1884年生まれの人 | ||
124 | 有地十五郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
有地 十五郎(ありち じゅうごろう、1882年10月22日 - 1947年11月8日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
筑波大学附属高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月22日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
125 | 立見豊丸 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
立見 豊丸(たつみ とよまる、1880年(明治13年)1月28日 – 1942年(昭和17年)11月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。貴族院子爵議員。陸軍政務次官。 | ||
筑波大学附属高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月28日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
126 | 寺内寿一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。 | ||
筑波大学附属高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
8月8日生まれの人  1879年生まれの人 |
東京都立日比谷高等学校の出身者
127 | 尾崎中和 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
尾崎 中和(おざき なかかず、1919年8月9日 - 1943年12月27日)は、日本陸軍の軍人。死後、二階級特進し陸軍中佐。殉職の項目も参照。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
8月9日生まれの人  1919年生まれの人 | ||
128 | 笹井醇一 | Wikipedia |
笹井 醇一(ささい じゅんいち、1918年(大正7年)2月13日 - 1942年(昭和17年)8月26日)は、日本の海軍軍人。海兵67期。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少佐。太平洋戦争におけるエース・パイロット。 | ||
2月13日生まれの人  1918年生まれの人 | ||
129 | 兼子正 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
兼子 正(かねこ ただし 1912年(明治45年)- 1942年(昭和17年)11月14日)は、日本の海軍軍人。空母艦上戦闘機搭乗員として、日中戦争及び太平洋戦争で撃墜王となる。ガダルカナルへの高速輸送船団の上空直衛の戦闘にて戦死。最終階級は海軍少佐。本籍は山形県西村山郡谷地町。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1912年生まれの人 | ||
130 | 鈴木實 三原市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日- 2001年(平成13年)10月28日)は、東京麹町生まれの大日本帝国海軍の軍人、実業家。旧海軍時代の最終階級は海軍中佐。本籍は新潟県岩船郡村上本町。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 三原市の出身者 | ||
4月20日生まれの人  1910年生まれの人 | ||
131 | 有坂秀世 | Wikipedia |
有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5日 - 1952年(昭和27年)3月13日)は、日本の言語学者、日本語学者。日本語の音韻史や音韻論に関して業績を遺した。上代特殊仮名遣に関する有坂の法則で知られる。父は軍人の有坂鉊蔵。 | ||
9月5日生まれの人  1908年生まれの人 | ||
132 | 黒井明 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
黒井 明(くろい あきら、1903年(明治36年)5月27日 - 1933年(昭和8年)3月10日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。水上機機長としての不時着水時の行動で責任感の鑑と称えられた。のちに殉職し最終階級は海軍少佐。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
5月27日生まれの人  1903年生まれの人 | ||
133 | 西竹一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐。愛称・通称はバロン西(バロン・ニシ、Baron Nishi)。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月12日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
134 | 久邇邦久 | Wikipedia |
久邇 邦久(くに くにひさ、1902年(明治35年)3月10日 - 1935年(昭和10年)3月4日)は、日本の華族、陸軍軍人。陸軍歩兵大尉。侯爵。久邇宮邦彦王の第二王子。香淳皇后の次兄。 | ||
3月10日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
135 | 牟田口格郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
牟田口 格郎(むたくち かくろう、1894年1月2日 - 1945年7月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1月2日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
136 | 野元為輝 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
野元 為輝(のもと ためき、1894年(明治27年)8月29日 - 1987年(昭和62年)12月19日)は、日本の海軍軍人。第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に空母・「瑞鶴」艦長として参戦した。最終階級は海軍少将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月29日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
137 | 木下勇 米子市 | Wikipedia |
木下 勇(きのした いさむ、1893年(明治26年)11月4日 - 1945年(昭和20年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。最後の功一級金鵄勲章受章者。 | ||
米子市の出身者 | ||
11月4日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
138 | 村田孝生 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 - 1953年4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月6日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
139 | 小林謙五 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 1948年4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
3月22日生まれの人  1893年生まれの人 |
140 | 三浦三郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 1974年10月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。関東憲兵隊司令官。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月26日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
141 | 酒井康 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986年8月1日)は、日本の陸軍軍人。第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将勲一等に至る。東京府出身。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月11日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
142 | 千田貞季 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 1945年3月8日)は、大日本帝国陸軍の軍人。栄典は従四位勲二等功四級。士候26期。栗林忠道大将とは同期。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月16日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
143 | 須藤栄之助 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - 1969年1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月24日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
144 | 田中信男 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
田中 信男(たなか のぶお、1891年(明治24年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月30日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
145 | 志摩清英 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
志摩清英(しま きよひで 1890年(明治23年)2月25日 - 1973年(昭和48年)11月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月25日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
146 | 千田貞敏 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 1944年12月25日戦死認定)は、日本海軍の軍人。ビアク島の戦いにて戦死。戦死後、一階級進級し海軍中将。正四位勲二等旭日重光章。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
7月22日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
147 | 多田武雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
多田 武雄(ただ たけお、1890年10月7日 - 1953年3月3日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月7日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
148 | 三木森彦 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
三木 森彦(みき もりひこ、 1890年(明治23年)5月21日 - 1973年(昭和48年)7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。東京都目黒区出身。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
5月21日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
149 | 笠原幸雄 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1889年(明治22年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。ロシア通の参謀として知られていた。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月6日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
150 | 桑原虎雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月26日 - 1975年(昭和50年)6月5日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月26日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
151 | 松田竹太郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
松田 竹太郎(まつだ たけたろう、1887年(明治20年)1月16日 - 1944年(昭和19年)5月8日)は、日本の工学者・海軍軍人。最終階級は、海軍少将。 東京府立工業奨励館・東京商工奨励館館長などを歴任。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1月16日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
152 | 長崎守一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
長崎 守一(ながさき もりいち、1886年(明治19年)9月12日 - 1968年(昭和43年)6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。士候21期。阿部平輔陸軍中将、冨永信政陸軍大将、石原莞爾陸軍中将とは同期。栄典は従四位勲二等功四級。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月12日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
153 | 有馬寛 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
有馬 寛(ありま ゆたか、1885年2月14日 - 1951年1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月14日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
154 | 国府尽平 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)4月30日)は、日本の海軍軍人、医師。海軍中佐で予備役となった[注 1]のち、医学博士号を取得した。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1885年生まれの人 | ||
155 | 鹿子木員信 | Wikipedia |
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。 | ||
11月3日生まれの人  1884年生まれの人 | ||
156 | 加藤隆義 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月20日 - 昭和30年(1955年)2月10日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍大将。子爵。広島県出身で旧姓は船越。同郷の加藤友三郎元帥から養子に迎えられ、以後加藤姓を名乗る。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
3月20日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
157 | 井上継松 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966年12月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1883年生まれの人 | ||
158 | 宇佐美興屋 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年1月27日 - 1970年9月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月27日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
159 | 山岡重厚 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )11月17日 - 1954年(昭和29年 )3月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月17日生まれの人  1882年生まれの人 |
160 | 渋谷伊之彦 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
渋谷 伊之彦(しぶや いのひこ、1881年11月14日 - 1935年12月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月14日生まれの人  1881年生まれの人 | ||
161 | 藤田尚徳 | Wikipedia |
藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月30日 - 1970年(昭和45年)7月23日)は、日本の海軍軍人、神職、侍従長。軍人としての最終階級は海軍大将。 | ||
10月30日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
162 | 畑俊六 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
畑 俊六(はた しゅんろく、1879年(明治12年)7月26日 - 1962年(昭和37年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月26日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
163 | 平賀譲 | Wikipedia |
平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 - 1943年(昭和18年)2月17日)は、日本の海軍軍人、工学者、華族。海軍技術中将従三位男爵、東京帝大総長、工学博士。東京府(現・東京都)生まれ、本籍地は広島県広島市。父は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。兄・徳太郎は海軍軍人。 | ||
3月8日生まれの人  1878年生まれの人 | ||
164 | 本城嘉守 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
本城 嘉守(ほんじょう よしもり、1877年(明治10年) - 1960年(昭和35年))は、日本の陸軍軍人、政治家。初代徳山市長(現・周南市)。父に本城宣馬。徳山七士の一人本城清は祖父にあたる。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1877年生まれの人 | ||
165 | 木原清 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
木原 清(きはら きよし、1876年(明治9年)4月25日 - 1940年(昭和15年)9月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
4月25日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
166 | 阿部信行 金沢市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年(明治8年)11月24日 - 1953年(昭和28年)9月7日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期(恩賜)、陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月24日生まれの人  1875年生まれの人 | ||
167 | 石井常造 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、生気研究者。基隆要塞司令官を務めた陸軍少将で、また生気自強療法を唱え生気の医療への応用を図った。従四位勳三等功四級。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月2日生まれの人  1875年生まれの人 | ||
168 | 南次郎 豊後高田市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 豊後高田市の出身者 | ||
8月10日生まれの人  1874年生まれの人 | ||
169 | 伊藤安吉 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
伊藤 安吉(いとう やすきち、1873年(明治6年)5月14日 - 1951年(昭和26年)9月15日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍造機少将、貴族院男爵議員。 | ||
東京都立日比谷高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
5月14日生まれの人  1873年生まれの人 | ||
170 | 磯村年 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
磯村 年(いそむら とし、明治5年9月(1872年10月頃) - 1961年(昭和36年)9月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1872年生まれの人 | ||
171 | 安満欽一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年2月13日) - 1960年10月24日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
4月2日生まれの人  1871年生まれの人 | ||
172 | 千田嘉平 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年8月28日)- 1943年(昭和18年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。陸軍少将、貴族院男爵議員。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月12日生まれの人  1871年生まれの人 | ||
173 | 阿南惟晟 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
阿南 惟晟(あなみ これあきら)は日本の軍人。太平洋戦争末期の陸軍大臣・阿南惟幾の次男。1941年東京府立第一中学校を卒業した後に[要出典]陸軍士官学校に入学。同校の56期卒業生。 | ||
東京都立日比谷高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 |
東京都立戸山高等学校の出身者
174 | 岡村正 | Wikipedia |
岡村 正(おかむら ただし、1938年7月26日 - )は、日本の経営者・財界人。東芝相談役、日本商工会議所名誉会頭、NPO法人日本防災士機構評議員などを務めている。父は元陸軍大佐で孫子研究家の岡村誠之 (陸軍軍人)。兄は元警視庁副総監の岡村健。 | ||
7月26日生まれの人  1938年生まれの人 | ||
175 | 村上兵衛 浜田市 | Wikipedia |
村上 兵衛(むらかみ ひょうえ、1923年(大正12年)12月6日 - 2003年(平成15年)1月6日)は日本の陸軍軍人、評論家、作家。本名は宏城(ひろき)。兄は武藤電機創業者の村上稔夫。 | ||
浜田市の出身者 | ||
12月6日生まれの人  1923年生まれの人 | ||
176 | 西尾常三郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
西尾 常三郎(にしお つねさぶろう、大正5年(1916年)7月2日 - 昭和19年(1944年)11月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍少佐だったが特別攻撃隊に志願、富嶽隊隊長として特攻、戦死。二階級特進により大佐となる。正七位、勲三等、功二級。 | ||
東京都立戸山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月2日生まれの人  1916年生まれの人 | ||
177 | 林八郎 | Wikipedia |
林 八郎(はやし はちろう、1914年(大正3年)9月5日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、皇道派。最終階級は陸軍少尉。二・二六事件で反乱部隊の首相官邸襲撃指揮官。 | ||
9月5日生まれの人  1914年生まれの人 | ||
178 | 緒方景俊 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
緒方 景俊(おがた かげとし、1913年(大正2年)9月1日 - 1982年(昭和57年)12月26日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官、第8代航空幕僚長。 | ||
東京都立戸山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月1日生まれの人  1913年生まれの人 | ||
179 | 城野宏 | Wikipedia |
城野 宏(じょうの ひろし、1913年8月31日 - 1985年12月21日)は、敗戦後中国共産党と戦い禁固刑を受けた陸軍軍人で、のち評論家。 | ||
8月31日生まれの人  1913年生まれの人 |
180 | 野中五郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
野中 五郎(のなか ごろう、1910年(明治43年)11月18日 - 1945年(昭和20年)3月21日)は、日本の海軍軍人。特攻兵器「桜花」を擁する神雷部隊指揮官として九州沖航空戦に参加。最終階級は戦死による二階級特進で海軍大佐。海兵61期卒。 | ||
東京都立戸山高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月18日生まれの人  1910年生まれの人 | ||
181 | 鈴木英 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。太平洋戦争において軍令部作戦課員などを務め、戦後は海上自衛隊に入隊。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。父は鈴木孝雄陸軍大将で、その次男。妻は岡田啓介首相の娘、喜美子。 | ||
東京都立戸山高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
4月1日生まれの人  1908年生まれの人 | ||
182 | 松田武 東京大学へ進学 | Wikipedia |
松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 - 1988年(昭和63年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、旧軍需省官僚、実業家である。第4代航空幕僚長。 | ||
東京都立戸山高等学校から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 | ||
8月3日生まれの人  1906年生まれの人 | ||
183 | 野中四郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月27日 - 1936年(昭和11年)2月29日)は、日本の陸軍軍人。 | ||
東京都立戸山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月27日生まれの人  1903年生まれの人 | ||
184 | 松村知勝 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
松村 知勝(まつむら ともかつ、1899年(明治32年)10月13日 - 1979年(昭和54年)5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
東京都立戸山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月13日生まれの人  1899年生まれの人 | ||
185 | 沖野亦男 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
沖野 亦男(おきの またお、1898年(明治31年)7月27日 - 1978年(昭和53年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 中国勤務が長く"海軍の長江男"と異名があった中華民国専門家である。第二次世界大戦で片足を失い捕虜となる。戦後は傷痍軍人会の創設、障害者スポーツの振興に尽力した。傷痍軍人会専務理事、世界歴戦者連盟(WVF - World Veterans Federation)理事。 | ||
東京都立戸山高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
7月27日生まれの人  1898年生まれの人 | ||
186 | 伏見宮博義王 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
博義王(ひろよしおう、1897年(明治30年)12月8日 - 1938年(昭和13年)10月19日)は、明治・大正期の伏見宮家の皇族、海軍軍人。 最終階級は海軍大佐[3]。 伏見宮第25代当主の伏見宮博恭王第1王子[4]。伏見宮の継承はしていないが、伏見宮博義王と通称されることもある[5][6]。 | ||
東京都立戸山高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
12月8日生まれの人  1897年生まれの人 | ||
187 | 横井忠雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
横井 忠雄(よこい ただお、1895年(明治28年)3月6日 - 1965年(昭和40年)9月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。大分県大分市出身。 | ||
東京都立戸山高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
3月6日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
188 | 本郷義夫 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
本郷 義夫(ほんごう よしお、1892年3月20日 - 1962年6月28日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。 | ||
東京都立戸山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月20日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
189 | 戸塚道太郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
戸塚 道太郎(とづか みちたろう、1890年(明治23年)4月21日 - 1966年(昭和41年)3月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
東京都立戸山高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
4月21日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
190 | 佐藤市郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
佐藤 市郎(さとう いちろう、1889年(明治22年)8月28日 - 1958年(昭和33年)4月14日)は、日本の海軍軍人、歴史家。最終階級は海軍中将。共に内閣総理大臣を務めた岸信介、佐藤栄作兄弟の実兄である。 | ||
東京都立戸山高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月28日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
191 | 吉本貞一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
吉本 貞一(よしもと ていいち、1887年3月23日 - 1945年9月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
東京都立戸山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月23日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
192 | 大島浩 恵那市 | Wikipedia |
大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の昭和期の陸軍軍人である。最終階級は陸軍中将。 | ||
恵那市の出身者 | ||
4月19日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
193 | 渡久雄 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
渡 久雄(わたり ひさお、1885年(明治18年)10月7日 - 1939年(昭和14年)1月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立戸山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月7日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
194 | 東條英機 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。現在の百科事典や教科書等では新字体で東条 英機と表記されることが多い[注 3]。軍人および政治家として関東軍参謀長(第10代)、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第50-52代)、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。 | ||
東京都立戸山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月30日生まれの人  1884年生まれの人 | ||
195 | 安藤三郎 | Wikipedia |
安藤 三郎(あんどう さぶろう、1883年12月24日 - 1963年8月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
12月24日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
196 | 谷寿夫 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
東京都立戸山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月23日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
197 | 石原忍 | Wikipedia |
石原 忍(いしはら しのぶ、1879年9月25日 - 1963年1月3日)は、日本の医学者、眼科医、陸軍軍人(最終階級は軍医少将)。東京帝国大学教授。東京府生まれ。石原式色覚異常検査表視力検査表の考案者。視力、色覚、屈折異常など、機能検査表の研究をはじめ、先天性全色盲の発見、この分野の先駆者となった。最初の色神検査表は1929年の第13回国際眼科学会で国際的に認定された。 | ||
9月25日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
198 | 小野寺長治郎 | Wikipedia |
小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年)3月24日 - 1939年(昭和14年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍主計中将。貴族院議員。 | ||
3月24日生まれの人  1875年生まれの人 |
東京都立新宿高等学校の出身者
199 | 志位正二 | Wikipedia |
志位 正二(しい まさつぐ、1920年1月1日 - 1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 | ||
1月1日生まれの人  1920年生まれの人 |
200 | 津野田知重 | Wikipedia |
津野田 知重(つのだ ともしげ、1917年(大正6年)2月1日 - 1987年7月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵少佐。熊本県出身。 | ||
2月1日生まれの人  1917年生まれの人 | ||
201 | 池田俊彦 | Wikipedia |
池田 俊彦(いけだ としひこ、1914年12月24日 - 2002年3月1日)は、昭和期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少尉。二・二六事件に参加して首相官邸を襲撃した8人の将校の中でただ一人無期禁固の判決を受けて、唯一死刑を免れた人物として知られる。 | ||
12月24日生まれの人  1914年生まれの人 | ||
202 | 小林友一 | Wikipedia |
小林 友一(こばやし ゆういち、1914年10月12日 - 1984年3月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 | ||
10月12日生まれの人  1914年生まれの人 | ||
203 | ジョンジュルジャブ | Wikipedia |
ジョンジュルジャブ(漢字:正珠爾扎布、1906年 - 1967年11月)は、満州国軍の軍人。モンゴル人。満蒙独立運動で戦死したバボージャブの三男で、日本で教育を受けたのち軍人となる。1945年8月のソ連参戦後、ハイラル市郊外で叛乱を起こし日系軍官を多数殺害した。最終階級は陸軍少将。日本名は“川島成信”、“田中正”。ジョンジュルジャップとも。 | ||
1906年生まれの人 |
東京都立両国高等学校の出身者
204 | 大西新蔵 | Wikipedia |
大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月17日 - 1988年(昭和63年)1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
7月17日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
205 | 江崎岩吉 東京大学へ進学 | Wikipedia |
江崎 岩吉(えさき いわきち、1890年12月1日 - 1986年1月16日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍技術中将。 | ||
東京都立両国高等学校から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 | ||
12月1日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
206 | 櫛淵セン一 | Wikipedia |
櫛淵 鍹一(くしぶち せんいち、1890年(明治23年)12月5日 - 1964年(昭和39年)9月20日)は、日本の陸軍軍人。第34軍司令官・第28師団長・軍馬補充部本部長等を歴任し、階級は陸軍中将功三級に至る。※櫛淵せん一 の「せん」の字は「金偏」に「宣」の字をつけた文字。 | ||
12月5日生まれの人  1890年生まれの人 |
東京都立小山台高等学校の出身者
207 | 冨士信夫 | Wikipedia |
冨士 信夫(ふじ のぶお、1917年8月 - 2005年1月24日)は、日本の歴史家、海軍軍人。東京裁判(極東国際軍事裁判)研究家。 | ||
1917年生まれの人 |
暁星高等学校の出身者
208 | 来栖良 横浜国立大学へ進学 | Wikipedia |
来栖 良(くるす りょう、1919年1月8日 - 1945年2月17日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍技術少佐。 | ||
暁星高等学校から横浜国立大学への進学者 全国の横浜国立大学の出身者 | ||
1月8日生まれの人  1919年生まれの人 | ||
209 | 松平永芳 海軍機関学校へ進学 | Wikipedia |
松平永芳(まつだいら ながよし 1915年(大正4年)3月21日 - 2005年(平成17年)7月10日)は、日本の海軍軍人、陸上自衛官、神官。靖国神社第6代宮司(1978年 - 1992年)時代には、A級戦犯の合祀を実施したことで知られる。 | ||
暁星高等学校から海軍機関学校への進学者 全国の海軍機関学校の出身者 | ||
3月21日生まれの人  1915年生まれの人 | ||
210 | 山本信次郎 藤沢市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年(明治10年)12月22日 - 1942年(昭和17年)2月28日)は日本の海軍軍人、カトリック教会信徒。最終階級は海軍少将、正三位勲二等功五級。 | ||
暁星高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 藤沢市の出身者 | ||
12月22日生まれの人  1877年生まれの人 |
麻布高等学校の出身者
211 | 松野頼三 山鹿市 慶應義塾大学へ進学 | Wikipedia |
松野 頼三(まつの らいぞう、1917年(大正6年)2月12日 - 2006年(平成18年)5月10日)は、日本の政治家。軍人時代の最終階級は海軍主計少佐。位階は正三位。勲等は旭日大綬章。総理府総務長官、労働大臣、防衛庁長官、農林大臣を歴任した。長男に松野頼久(政治家)、孫娘に松野未佳(2016年ミス日本グランプリ)がいる。 | ||
麻布高等学校から慶應義塾大学への進学者 全国の慶應義塾大学の出身者 山鹿市の出身者 | ||
2月12日生まれの人  1917年生まれの人 | ||
212 | 中島親孝 | Wikipedia |
中島 親孝(なかじま ちかたか、1905年(明治38年)5月28日 - 1992年(平成4年)5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵54期。最終階級は海軍中佐。 | ||
5月28日生まれの人  1905年生まれの人 | ||
213 | 福地誠夫 | Wikipedia |
福地 誠夫(ふくち のぶお、1904年(明治37年)2月14日 - 2007年(平成19年)7月26日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は日本海軍では海軍大佐、海上自衛隊では海将。退官後は記念艦「三笠」艦長を務めた。 | ||
2月14日生まれの人  1904年生まれの人 | ||
214 | 井桁敬治 | Wikipedia |
井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 1944年7月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
7月13日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
215 | 小須田勝造 | Wikipedia |
小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年2月20日 - 1977年12月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。 | ||
2月20日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
216 | 畑英太郎 慶應義塾大学へ進学 | Wikipedia |
畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日(明治5年7月25日) - 1930年5月31日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
麻布高等学校から慶應義塾大学への進学者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
8月28日生まれの人  1872年生まれの人 | ||
217 | 丹生誠忠 | Wikipedia未登録 |
日本陸軍軍人、陸軍中尉、二・二六事件で決起昭和2年卒 |
海城高等学校の出身者
218 | 黒島亀人 呉市 | Wikipedia |
黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月10日 - 1965年(昭和40年)10月20日)は、日本の海軍軍人。海兵44期卒業。最終階級は海軍少将。 | ||
呉市の出身者 | ||
10月10日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
219 | 和田秀穂 | Wikipedia |
和田 秀穂(わだ ひでほ、1886年1月2日 - 1972年4月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
1月2日生まれの人  1886年生まれの人 |
220 | 百武源吾 | Wikipedia |
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である。 | ||
1月28日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
221 | 中島今朝吾 | Wikipedia |
中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1945年10月28日)は、日本の陸軍軍人。第16師団師団長、第4軍司令官、階級は陸軍中将。 | ||
6月15日生まれの人  1881年生まれの人 | ||
222 | 左近司政三 | Wikipedia |
左近司 政三(さこんじ せいぞう、1879年(明治12年)6月27日 - 1969年(昭和44年)8月30日)は、日本の海軍軍人。政治家。最終階級は海軍中将。第3次近衛文麿内閣の商工大臣。鈴木貫太郎内閣の国務大臣。 | ||
6月27日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
223 | 野村吉三郎 早稲田大学へ進学 | Wikipedia |
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)12月16日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県和歌山市出身。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。 | ||
海城高等学校から早稲田大学への進学者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
12月16日生まれの人  1877年生まれの人 | ||
224 | 小林躋造 広島市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年(明治10年)10月1日 - 1962年(昭和37年)7月4日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。小磯國昭内閣の国務大臣。広島県広島市出身。 | ||
海城高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 広島市の出身者 | ||
10月1日生まれの人  1877年生まれの人 | ||
225 | 四竈孝輔 | Wikipedia |
四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1937年12月12日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。宮城県仙台市出身。 | ||
10月26日生まれの人  1876年生まれの人 |
成城高等学校の出身者
226 | 市岡寿 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 1963年2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
成城高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
5月26日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
227 | 瀬谷啓 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
瀬谷 啓(せや ひらく、明治22年(1889年)10月3日 - 昭和29年(1954年)5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月3日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
228 | 矢野機 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年2月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月27日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
229 | 塚田攻 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942年12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月14日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
230 | 小沢治三郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
小沢 治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校37期生。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 | ||
成城高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月2日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
231 | 蓮沼蕃 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 1954年2月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、勲等は勲一等功二級。石川県出身。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月26日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
232 | 山田乙三 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日 - 1965年(昭和40年)7月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月6日生まれの人  1881年生まれの人 | ||
233 | 乃木保典 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月16日 - 1904年(明治37年)11月30日)は、明治期の日本の陸軍軍人で陸軍大将・乃木希典、静子夫妻の次男。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月16日生まれの人  1881年生まれの人 | ||
234 | 竹垣純信 | Wikipedia |
竹垣 純信(たけがき すみのぶ/じゅんしん、1881年(明治14年)2月 - 1917年(大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で第11駆逐隊機関長を務め、地中海で戦死した機関中佐である。 | ||
1881年生まれの人 | ||
235 | 寺内寿一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
8月8日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
236 | 秦真次 皇學館大学へ進学 | Wikipedia |
秦 真次(はた しんじ、1879年4月6日 - 1950年2月24日)は、日本の陸軍軍人、神職。最終階級は陸軍中将。 | ||
成城高等学校から皇學館大学への進学者 全国の皇學館大学の出身者 | ||
4月6日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
237 | 乃木勝典 | Wikipedia |
乃木 勝典(のぎ かつすけ、1879年(明治12年)8月28日 - 1904年(明治37年)5月27日))は、明治時代の陸軍軍人で、乃木希典・静子夫妻の長男。戦死時の階級は陸軍歩兵少尉。戦死による一階級特進により、最終階級は陸軍歩兵中尉。 | ||
8月28日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
238 | 松井石根 名古屋市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 名古屋市の出身者 | ||
7月27日生まれの人  1878年生まれの人 | ||
239 | 厚東篤太郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 - 1958年9月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月22日生まれの人  1878年生まれの人 |
240 | 林仙之 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
林 仙之(はやし なりゆき、1877年1月5日 - 1944年5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月5日生まれの人  1877年生まれの人 | ||
241 | 松木直亮 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
松木 直亮(まつき なおすけ、1876年11月5日 - 1940年5月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月5日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
242 | 緒方勝一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
緒方 勝一(おがた しょういち、1875年1月25日 - 1960年12月28日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月25日生まれの人  1875年生まれの人 | ||
243 | 福田彦助 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年11月5日 - 1959年7月30日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月5日生まれの人  1875年生まれの人 | ||
244 | 町野武馬 | Wikipedia |
町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16日 - 1968年(昭和43年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。張作霖の顧問を務め、最終階級は陸軍大佐。衆議院議員。戦後再建された大日本武徳会会長。 | ||
11月16日生まれの人  1875年生まれの人 | ||
245 | 南次郎 豊後高田市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 豊後高田市の出身者 | ||
8月10日生まれの人  1874年生まれの人 | ||
246 | 久邇宮邦彦王 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年(明治6年)7月23日 - 1929年(昭和4年)1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級及び位階勲等は軍事参議官、陸軍大将、大勲位、功四級。贈元帥、贈大勲位菊花章頸飾。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月23日生まれの人  1873年生まれの人 | ||
247 | 金谷範三 豊後高田市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 1933年6月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 豊後高田市の出身者 | ||
4月24日生まれの人  1873年生まれの人 | ||
248 | 菱刈隆 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
菱刈 隆(ひしかり たか、1871年12月27日(明治4年11月16日) - 1952年(昭和27年)7月31日)は、日本陸軍の軍人、外交官。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功五級。幼名、幸吉。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月27日生まれの人  1871年生まれの人 | ||
249 | 国司伍七 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
国司 伍七(くにし ごしち、1870年6月24日(明治3年5月26日) - 1939年10月25日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
6月24日生まれの人  1870年生まれの人 | ||
250 | 鈴木孝雄 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
鈴木 孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日(1869年12月2日) - 1964年(昭和39年)1月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月29日生まれの人  1869年生まれの人 | ||
251 | 宇垣一成 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
6月21日生まれの人  1868年生まれの人 | ||
252 | 蔡鍔 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
蔡 鍔(さい がく)は、清末民初の軍人。中華民国の初代雲南都督。袁世凱による帝制実施を阻止するため、護国戦争を発動したことでも知られる。原名は艮寅、字は松坡。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
253 | 胡景翼 | Wikipedia |
胡 景翼(こ けいよく)は、清末民初の軍人・革命家。中国同盟会に属した革命派人士。中華民国が成立した後は、北京政府、直隷派、国民軍の軍人となった。一時は靖国軍として南方政府(護法軍政府)に属したこともある。字は励生、笠僧、立生。号は中山。 | ||
254 | 許崇智 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
許 崇智(きょ すうち)は清末民初の軍人・政治家。主に初期の中国国民党における有力な軍指揮官であった。字は汝為。祖父と父は福建省で通判をつとめ、一族の許応騤は、清末の閩浙総督である。親族には、堂兄(父方の従兄)で軍人・政治家の許崇灝、堂弟(父方の従弟)で国立中山大学校長などをつとめた教育者の許崇清などがいる。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
255 | 藍天蔚 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
藍 天蔚(らん てんい)は清末民初の軍人。北洋系に属し、同時に革命派の士官として知られる。字は秀豪。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
256 | 盧金山 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
盧 金山(ろ きんざん)は清末民初の軍人。北洋系の軍人で、後に北京政府、直隷派に属した。字は貢庭。 | ||
成城高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 |
早稲田高等学校の出身者
257 | 和田操 | Wikipedia |
和田 操(わだ みさお、1889年12月6日 - 1981年11月19日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
12月6日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
258 | 岡村寧次 | Wikipedia |
岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年(明治17年)5月15日 - 1966年(昭和41年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛の娘と再婚する。陸軍三羽烏の一人。 | ||
5月15日生まれの人  1884年生まれの人 |
京華高等学校の出身者
259 | 赤松貞雄 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
赤松 貞雄(あかまつ さだお、明治33年(1900年)5月21日 - 昭和57年(1982年)8月16日)は、日本の陸軍軍人。東條英機大将の、陸相秘書官・首相秘書官として知られる。階級は陸軍大佐。小松崎力雄陸軍少将は兄。 | ||
京華高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
5月21日生まれの人  1900年生まれの人 |
260 | 那須弓雄 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
那須 弓雄(なす ゆみお、1892年6月27日 - 1942年10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
京華高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
6月27日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
261 | 安江仙弘 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年1月12日 - 1950年8月14日)は、日本陸軍の軍人、最終階級は陸軍大佐。 | ||
京華高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月12日生まれの人  1888年生まれの人 |
東洋大学京北高等学校の出身者
262 | 高田利種 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
高田 利種(たかだ としたね、1895年1月15日 - 1987年10月25日)は、日本海軍の軍人、実業家。海兵45期、海大28期。最終階級は海軍少将。戦後は生化学工業株式会社社長。 | ||
東洋大学京北高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1月15日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
263 | 鈴木貞一 芝山町 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月16日 - 1989年(平成元年)7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。 | ||
東洋大学京北高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 芝山町の出身者 | ||
12月16日生まれの人  1888年生まれの人 |
攻玉社高等学校の出身者
264 | 石川信吾 | Wikipedia |
石川 信吾(いしかわ しんご、1894年(明治27年)1月1日 - 1964年(昭和39年)12月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。通称不規弾。 | ||
1月1日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
265 | 岡敬純 | Wikipedia |
岡 敬純(おか たかずみ、1890年(明治23年)2月11日 - 1973年(昭和48年)12月4日)は、昭和の海軍軍人、海軍中将、海兵39期、海大21期。 | ||
2月11日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
266 | 高橋三吉 | Wikipedia |
高橋 三吉(たかはし さんきち、明治15年(1882年)8月24日 - 昭和41年(1966年)6月15日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 | ||
8月24日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
267 | 金子養三 | Wikipedia |
金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月11日 - 1941年(昭和16年)12月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の最初期の搭乗員で、また搭乗員経験者として最初の将官となった。日本海軍飛行機の元祖、また海鷲育ての親ともいわれる人物である。 | ||
6月11日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
268 | 藤田尚徳 | Wikipedia |
藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月30日 - 1970年(昭和45年)7月23日)は、日本の海軍軍人、神職、侍従長。軍人としての最終階級は海軍大将。 | ||
10月30日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
269 | 佐久間勉 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 1910年4月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉。 | ||
攻玉社高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
9月13日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
270 | 山本英輔 | Wikipedia |
山本英輔(やまもと えいすけ、1876年(明治9年)5月15日 - 1962年(昭和37年)7月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。山本権兵衛元内閣総理大臣の甥(権兵衛の兄吉蔵の息子)にあたり、「封じ袴の大将」と呼ばれた。 | ||
5月15日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
271 | 大角岑生 稲沢市 | Wikipedia |
大角 岑生(おおすみ みねお、明治9年(1876年)5月1日 - 昭和16年(1941年)2月5日)は、大正から昭和にかけての日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。愛知県出身で本籍は高知県。 | ||
稲沢市の出身者 | ||
5月1日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
272 | 百武三郎 | Wikipedia |
百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1963年(昭和38年)10月30日)は、日本の海軍軍人、海軍大将、侍従長。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上唯一組の海軍大将兄弟である。 | ||
6月3日生まれの人  1872年生まれの人 | ||
273 | 竹下勇 | Wikipedia |
竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1946年(昭和21年)7月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。 | ||
1月5日生まれの人  1870年生まれの人 | ||
274 | 加藤寛治 福井市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
加藤 寛治(かとう ひろはる、有職読み:かんじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1939年(昭和14年)2月9日)は、明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身。元福井藩士、海軍大尉・加藤直方の長男。子息・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。 | ||
攻玉社高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 福井市の出身者 | ||
10月26日生まれの人  1870年生まれの人 | ||
275 | 安保清種 | Wikipedia |
安保 清種(あぼ きよかず、明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和23年(1948年)6月8日)は、明治期から昭和期にかけての日本海軍軍人。海軍大将。 | ||
10月15日生まれの人  1870年生まれの人 | ||
276 | 鈴木貫太郎 野田市 | Wikipedia |
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級・栄典は海軍大将従一位勲一等功三級男爵。 | ||
野田市の出身者 | ||
1月18日生まれの人  1868年生まれの人 | ||
277 | 松村龍雄 | Wikipedia |
松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年2月3日) - 1932年7月18日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
2月25日生まれの人  1868年生まれの人 | ||
278 | 広瀬武夫 竹田市 | Wikipedia |
広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。 | ||
竹田市の出身者 | ||
7月16日生まれの人  1868年生まれの人 | ||
279 | 財部彪 都城市 | Wikipedia |
財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月10日) - 昭和24年(1949年)1月13日)は、日本の軍人、政治家。宮崎県都城市出身。階級は海軍大将。 | ||
都城市の出身者 | ||
4月7日生まれの人  1867年生まれの人 |
280 | 山屋他人 | Wikipedia |
山屋 他人(やまや たにん、慶応2年3月4日(1866年)4月18日 - 昭和15年(1940年)9月10日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。皇太子徳仁親王妃雅子は曾孫にあたる。 | ||
3月4日生まれの人  1866年生まれの人 | ||
281 | 栃内曽次郎 | Wikipedia |
栃内 曽次郎(とちない そうじろう、慶応2年6月8日(1866年7月19日) - 昭和7年(1932年)7月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。晩年には貴族院議員を務めた。 | ||
6月8日生まれの人  1866年生まれの人 | ||
282 | 野間口兼雄 | Wikipedia |
野間口 兼雄(のまぐち かねお、慶応2年2月14日(1866年3月30日) - 昭和18年(1943年)12月24日)は、日本の海軍軍人、海軍大将。 | ||
2月14日生まれの人  1866年生まれの人 | ||
283 | 江頭安太郎 | Wikipedia |
江頭 安太郎(えがしら やすたろう、1865年3月9日(元治2年2月12日) - 1913年(大正2年)1月23日)は日本の海軍軍人。海軍中将従四位勲二等功三級。皇太子徳仁親王妃雅子は曾孫にあたる。 | ||
3月9日生まれの人  1865年生まれの人 | ||
284 | 上泉徳弥 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1946年11月27日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
攻玉社高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月13日生まれの人  1865年生まれの人 | ||
285 | 川島令次郎 | Wikipedia |
川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(元治元年9月14日) - 1947年(昭和22年)11月22日)は、日本海軍の軍人。海軍中将正三位勲一等功三級。宮中顧問官。 | ||
10月14日生まれの人  1864年生まれの人 | ||
286 | 堀内文次郎 | Wikipedia |
堀内 文次郎(ほりうち ぶんじろう、文久3年9月17日(1863年10月29日) - 1942年(昭和17年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧7期。栄典は従四位勲二等功二級。最終階級は陸軍中将。 | ||
9月17日生まれの人  1863年生まれの人 | ||
287 | 村上格一 | Wikipedia |
村上 格一(むらかみ かくいち、文久2年11月1日(1862年12月21日) - 昭和2年(1927年)11月15日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。清浦内閣の海軍大臣。佐賀県出身。幼名は袈裟之助(けさのすけ)。養子に海軍少将・村上暢之助。また実娘は海軍少将・横井忠雄と結婚している。 | ||
11月1日生まれの人  1862年生まれの人 | ||
288 | 伊集院五郎 鹿児島市 | Wikipedia |
伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、嘉永5年9月28日(1852年11月9日) - 大正10年(1921年)1月13日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功一級男爵。 | ||
鹿児島市の出身者 | ||
9月28日生まれの人  1852年生まれの人 | ||
289 | 上村彦之丞 鹿児島市 | Wikipedia |
上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう、嘉永2年5月1日(1849年6月20日) - 大正5年(1916年)8月8日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。従二位勲一等功一級男爵。あだ名は「船乗り将軍」。 | ||
鹿児島市の出身者 | ||
5月1日生まれの人  1849年生まれの人 |
東京高等学校の出身者
290 | 嶋田繁太郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年(明治16年)9月24日 - 1976年(昭和51年)6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海兵32期。最終階級は海軍大将。第47代海軍大臣。第17代軍令部総長。A級戦犯として終身刑。 | ||
東京高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
9月24日生まれの人  1883年生まれの人 |
日本学園高等学校の出身者
291 | 磯田三郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年2月28日 - 1979年10月26日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
日本学園高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
2月28日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
292 | 荒木貞夫 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
荒木 貞夫(あらき さだお、1877年(明治10年)5月26日 - 1966年(昭和41年)11月2日)は、日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。 | ||
日本学園高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
5月26日生まれの人  1877年生まれの人 |
青山学院高等部の出身者
293 | 坂井三郎 佐賀市 | Wikipedia |
坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。 | ||
佐賀市の出身者 | ||
8月26日生まれの人  1916年生まれの人 |
学習院高等科の出身者
294 | 三笠宮崇仁親王 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年(大正4年)12月2日 - 2016年(平成28年)10月27日)は、日本の皇族、歴史学者(専攻は古代オリエント史)、陸軍軍人(最終階級は陸軍少佐)。大正天皇と貞明皇后の第四皇男子。昭和天皇の弟、今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。勲等は大勲位。称号は東京芸術大学名誉客員教授。お印は若杉(わかすぎ)。 | ||
学習院高等科から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月2日生まれの人  1915年生まれの人 | ||
295 | 徳川慶光 東京大学へ進学 | Wikipedia |
德川 慶光(とくがわ よしみつ、1913年(大正2年)2月6日 - 1993年(平成5年)2月6日)は、日本の官僚、政治家、陸軍軍人。江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の孫。爵位は公爵。通称は有職読みの「けいこう」。新字体で徳川 慶光とも表記される。 | ||
学習院高等科から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 | ||
2月6日生まれの人  1913年生まれの人 | ||
296 | 竹田恒徳 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
竹田 恒徳(たけだ つねよし、1909年(明治42年)3月4日 - 1992年(平成4年)5月11日)は、日本の旧皇族(竹田宮第2代)、陸軍軍人。1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱し、竹田恒徳と名乗る。皇籍離脱前は竹田宮恒徳王(たけだのみや つねよしおう)。陸軍少将竹田宮恒久王の第1王子で、母は明治天皇の第6皇女常宮昌子内親王、昭和天皇の従弟にあたる。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位。 | ||
学習院高等科から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月4日生まれの人  1909年生まれの人 | ||
297 | 南郷茂章 | Wikipedia |
南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年(明治39年)7月1日 - 1938年(昭和13年)7月18日)は、日本の海軍軍人。海兵55期。支那事変(日中戦争)における撃墜王。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 | ||
7月1日生まれの人  1906年生まれの人 | ||
298 | 久邇邦久 | Wikipedia |
久邇 邦久(くに くにひさ、1902年(明治35年)3月10日 - 1935年(昭和10年)3月4日)は、日本の華族、陸軍軍人。陸軍歩兵大尉。侯爵。久邇宮邦彦王の第二王子。香淳皇后の次兄。 | ||
3月10日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
299 | 伏見宮博義王 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
博義王(ひろよしおう、1897年(明治30年)12月8日 - 1938年(昭和13年)10月19日)は、明治・大正期の伏見宮家の皇族、海軍軍人。 最終階級は海軍大佐。 伏見宮第25代当主の伏見宮博恭王第1王子[4]。伏見宮の継承はしていないが、伏見宮博義王と通称されることもある[5][6]。 | ||
学習院高等科から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
12月8日生まれの人  1897年生まれの人 |
300 | 醍醐忠重 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
醍醐 忠重(だいご ただしげ、明治24年(1891年)10月15日 - 昭和22年(1947年)12月6日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。爵位は侯爵 オランダ領東インド | ||
学習院高等科から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月15日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
301 | 上野正雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
上野 正雄(うえの まさお、1890年(明治23年)7月16日 - 1965年(昭和40年)2月16日)は、日本の華族、海軍軍人。爵位は伯爵、最終階級は海軍少将。旧姓は永田。 | ||
学習院高等科から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
7月16日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
302 | 小松輝久 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年(明治21年)8月12日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、北白川宮家出身の華族、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。皇族時代は(北白川宮)輝久王(てるひさおう)という。従二位勲一等侯爵。墓所は東京都文京区にある護国寺。 | ||
学習院高等科から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
8月12日生まれの人  1888年生まれの人 | ||
303 | 朝香宮鳩彦王 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年(明治20年)10月20日 - 1981年(昭和56年)4月12日)は日本の皇族、陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子で、朝香宮初代当主。1947年(昭和22年)10月14日に皇族の身分を離れ、朝香鳩彦と名乗る。 | ||
学習院高等科から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月20日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
304 | 東久邇宮稔彦王 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の皇族(旧皇族)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)名誉会長、第2代会長。 | ||
学習院高等科から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月3日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
305 | 住山徳太郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)5月1日 - 1962年(昭和37年)11月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
学習院高等科から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
5月1日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
306 | 島津忠重 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年(明治19年)10月20日 - 1968年(昭和43年)4月9日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 | ||
学習院高等科から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月20日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
307 | 竹田宮恒久王 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年(明治15年)9月22日 - 1919年(大正8年)4月23日)は日本の皇族・陸軍軍人。 | ||
学習院高等科から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月22日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
308 | 梨本宮守正王 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年(明治7年)3月9日 - 1951年(昭和26年)1月1日)は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。大韓帝国最後の皇太子である李王垠の岳父。 | ||
学習院高等科から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月9日生まれの人  1874年生まれの人 | ||
309 | 久邇宮邦彦王 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年(明治6年)7月23日 - 1929年(昭和4年)1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級及び位階勲等は軍事参議官、陸軍大将、大勲位、功四級。贈元帥、贈大勲位菊花章頸飾。 | ||
学習院高等科から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月23日生まれの人  1873年生まれの人 |
巣鴨高等学校の出身者
310 | 蝦名賢造 東京帝国大学へ進学 | Wikipedia |
蝦名 賢造(えびな けんぞう、1918年(大正7年)1月22日 - 2009年(平成21年)1月3日)は日本の海軍軍人、経済学者、伝記作家。経済学博士。専門は財政学。青森県東津軽郡小湊町出身。 | ||
巣鴨高等学校から東京帝国大学への進学者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
1月22日生まれの人  1918年生まれの人 |
開成高等学校の出身者
311 | 山口多聞 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月17日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。ミッドウェー海戦において戦死。最終階級は海軍中将。 | ||
開成高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月17日生まれの人  1892年生まれの人 |
武蔵高等学校の出身者
312 | 近藤道生 | Wikipedia |
近藤 道生(こんどう みちたか、1920年2月2日 - 2010年6月30日)は、日本の海軍軍人・大蔵官僚、後に博報堂代表取締役。趣味、特技は茶の湯、読書、ゴルフ。号は平心庵宗道。 | ||
2月2日生まれの人  1920年生まれの人 |
早稲田大学高等学院の出身者
313 | 稲嶺一郎 本部町 早稲田大学へ進学 | Wikipedia |
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。 | ||
早稲田大学高等学院から早稲田大学への進学者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
9月23日生まれの人  1905年生まれの人 |
日本大学第三高等学校の出身者
314 | 本田耕一 法政大学へ進学 | Wikipedia |
本田 耕一(ほんだ こういち 1923年 - 1945年5月14日)は、日本の元アマチュア野球選手、大日本帝国海軍軍人。兵庫県出身。 | ||
日本大学第三高等学校から法政大学への進学者 全国の法政大学の出身者 | ||
1923年生まれの人 |
神奈川県立希望ヶ丘高等学校の出身者
315 | 藤田雄蔵 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月19日 - 1939年(昭和14年)2月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。 | ||
神奈川県立希望ヶ丘高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
2月19日生まれの人  1898年生まれの人 | ||
316 | 中村俊久 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1972年3月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
神奈川県立希望ヶ丘高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月16日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
317 | 山口三郎 | Wikipedia |
山口 三郎(やまぐち さぶろう、1889年(明治22年)9月27日 - 1934年(昭和9年)2月1日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。海軍随一の空爆の名手であったが、神兵隊事件で内乱予備陰謀罪に問われ検挙された。最終階級は海軍中佐。 | ||
9月27日生まれの人  1889年生まれの人 |
神奈川県立横須賀高等学校の出身者
318 | 左近允尚敏 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
左近允 尚敏(さこんじょう なおとし、1925年(大正15年)2月11日 - 2013年(平成25年)6月30日)は、大日本帝国海軍の軍人、海上自衛官。最終階級は海将。鹿児島県出身。海兵72期。海軍中将左近允尚正の次男。多号作戦で駆逐艦「島風」砲術長として「島風」沈没時(多号作戦)に戦死した海軍大尉左近允正章(まさふみ)は兄にあたる。 | ||
神奈川県立横須賀高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月11日生まれの人  1925年生まれの人 | ||
319 | 横山保 | Wikipedia |
横山 保(よこやま たもつ、1909年(明治42年)8月11日 - 1981年(昭和56年)3月)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵59期。最終階級は海軍で中佐、空自で空将補。 | ||
8月11日生まれの人  1909年生まれの人 |
320 | 荒尾興功 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
荒尾 興功(あらお おきかつ、1902年3月18日 - 1974年8月22日)は、日本の陸軍軍人、官僚。最終階級は陸軍大佐。 | ||
神奈川県立横須賀高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月18日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
321 | 和智恒蔵 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
和智 恒蔵(わち つねぞう、旧姓・大野、1900年7月24日 - 1990年2月2日)は、日本の海軍軍人、僧。最終階級は海軍大佐で、硫黄島では海軍警備隊司令を務めた。二男三女の父。僧名は恒阿弥。 | ||
神奈川県立横須賀高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
7月24日生まれの人  1900年生まれの人 | ||
322 | 大橋勝夫 鎌倉市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
大橋 勝夫(おおはし かつお、生年不明 - 1945年(昭和20年)7月16日[* 1])は、日本の海軍軍人(海兵53期卒)。太平洋戦争において四艦の潜水艦長を歴任し、交通破壊戦に戦果を挙げた。その一方で漂流していた連合国将兵を攻撃せず、戦後になってこの大橋の行為が明らかとなった。神龍特別攻撃隊を構成した「伊13」潜水艦長として戦死し、一階級昇進により最終階級は海軍大佐。 | ||
神奈川県立横須賀高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 鎌倉市の出身者 |
新潟県立新発田高等学校の出身者
323 | 小柳冨次 新潟市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
小柳 冨次[注釈 1](こやなぎ とみじ、1893年7月16日 - 1978年4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
新潟県立新発田高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 新潟市の出身者 | ||
7月16日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
324 | 松下芳男 新発田市 | Wikipedia |
松下 芳男(まつした よしお、明治25年(1892年)5月4日 - 昭和58年(1983年)4月9日)は、日本陸軍の軍人(陸軍中尉)・軍事評論家・軍事史家。「明治軍制史論」で法学博士(東京大学)。新潟県新発田町(新発田市)出身。 | ||
新発田市の出身者 | ||
5月4日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
325 | 今村均 仙台市 | Wikipedia |
今村 均(いまむら ひとし、1886年6月28日 - 1968年10月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。 | ||
仙台市の出身者 | ||
6月28日生まれの人  1886年生まれの人 |
新潟県立新潟高等学校の出身者
326 | 伊藤精司 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
伊藤 精司(いとう せいじ、1882年(明治15年)3月1日 - 1964年(昭和39年)6月22日)は、日本陸軍の軍人。階級は陸軍少将。武道の称号は大日本武徳会銃剣術範士、剣道教士。流派は直心影流。 | ||
新潟県立新潟高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月1日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
327 | 建川美次 新潟市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
建川 美次(たてかわ よしつぐ、1880年(明治13年)10月3日 - 1945年(昭和20年)9月9日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等功四級。 | ||
新潟県立新潟高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 新潟市の出身者 | ||
10月3日生まれの人  1880年生まれの人 |
新潟県立三条高等学校の出身者
328 | 岩淵三次 三条市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年(明治28年)3月2日 - 1945年(昭和20年)2月26日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。最終階級は海軍中将。 | ||
新潟県立三条高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 三条市の出身者 | ||
3月2日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
329 | 角田覚治 三条市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23日-1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。テニアン島で戦死。 | ||
新潟県立三条高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 三条市の出身者 | ||
9月23日生まれの人  1890年生まれの人 |
新潟県立長岡高等学校の出身者
330 | 佐藤正四郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)10月25日 - 1958年(昭和33年)7月7日)は、日本の海軍軍人。二・二六事件において、東京に出動した海軍陸戦隊の指揮官を務めた海軍少将である。 | ||
新潟県立長岡高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月25日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
331 | 山本五十六 長岡市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年(明治17年)4月4日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。旧姓は高野。 | ||
新潟県立長岡高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 長岡市の出身者 | ||
4月4日生まれの人  1884年生まれの人 | ||
332 | 竹垣純信 | Wikipedia |
竹垣 純信(たけがき すみのぶ/じゅんしん、1881年(明治14年)2月 - 1917年(大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で第11駆逐隊機関長を務め、地中海で戦死した機関中佐である。 | ||
1881年生まれの人 | ||
333 | 小林順一郎 | Wikipedia |
小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年1月3日 - 1963年11月20日)は、日本の陸軍砲兵大佐、実業家、右翼の黒幕、右翼団体三六倶楽部主宰者、大政翼賛会総務。戦後A級戦犯として逮捕された。新潟県長岡市出身。 | ||
1月3日生まれの人  1880年生まれの人 |
新潟県立長岡工業高等学校の出身者
334 | 宮川三郎 小千谷市 | Wikipedia |
宮川 三郎(みやがわ さぶろう、1925年6月5日 - 1945年6月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。 | ||
小千谷市の出身者 | ||
6月5日生まれの人  1925年生まれの人 |
新潟県立有恒高等学校の出身者
335 | 長嶺喜一 上越市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2日 - 昭和20年(1945年)11月15日)は、大正、昭和期の日本の陸軍軍人。新潟県頸城郡寺野村東山寺(現在の新潟県上越市板倉区)出身。陸士28期・陸大36期。最終階級は陸軍中将。 | ||
新潟県立有恒高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 上越市の出身者 | ||
6月2日生まれの人  1895年生まれの人 |
新潟県立佐渡高等学校の出身者
336 | 本間雅晴 佐渡市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月27日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期、陸大27期(優等)。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等。 | ||
新潟県立佐渡高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 佐渡市の出身者 | ||
11月27日生まれの人  1887年生まれの人 |
富山県立魚津高等学校の出身者
337 | 住栄作 魚津市 東京大学へ進学 | Wikipedia |
住 栄作(すみ えいさく、1920年5月20日 - 1986年12月20日)は、日本の内務官僚、海軍軍人(海軍主計大尉)、政治家(元衆議院議員)。 | ||
富山県立魚津高等学校から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 魚津市の出身者 | ||
5月20日生まれの人  1920年生まれの人 |
富山県立富山高等学校の出身者
338 | 安井藤治 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
安井 藤治(やすい とうじ、1885年10月11日 - 1970年7月8日)は、明治-昭和の陸軍軍人、政治家。従三位勲一等。陸軍中将まで昇った後、鈴木貫太郎内閣の国務大臣(無任所)を務めた。 | ||
富山県立富山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月11日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
339 | 高松春治 慶應義塾大学へ進学 | Wikipedia |
高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年12月〜)とは、日本の軍人、学者、発明家である。無限軌道を発明したことで知られる。 | ||
富山県立富山高等学校から慶應義塾大学への進学者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
1882年生まれの人 |
富山県立砺波高等学校の出身者
340 | 瀬島龍三 小矢部市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。 | ||
富山県立砺波高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 小矢部市の出身者 | ||
12月9日生まれの人  1911年生まれの人 |
石川県立金沢泉丘高等学校の出身者
341 | 浦茂 金沢市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
浦 茂(うら しげる、1909年2月11日 - 2001年11月18日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、実業家である。航空自衛隊では第5代航空幕僚長を務めた。最終階級は中佐(旧陸軍)、航空幕僚長たる空将(空自)。 | ||
石川県立金沢泉丘高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 金沢市の出身者 | ||
2月11日生まれの人  1909年生まれの人 | ||
342 | 佐藤賢了 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
石川県立金沢泉丘高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
6月1日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
343 | 岡田次作 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
石川県立金沢泉丘高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月13日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
344 | 草鹿任一 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月7日 - 1972年(昭和47年)8月24日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。勲等は勲一等。 | ||
石川県立金沢泉丘高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
12月7日生まれの人  1888年生まれの人 | ||
345 | 下村定 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。 | ||
石川県立金沢泉丘高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月23日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
346 | 中村孝太郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
中村 孝太郎(なかむら こうたろう、1881年8月28日‐1947年8月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。林内閣の陸軍大臣。石川県出身。 | ||
石川県立金沢泉丘高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
8月28日生まれの人  1881年生まれの人 |
福井県立藤島高等学校の出身者
347 | 長井満 | Wikipedia |
長井満(ながいみつる、1895年(明治28年)1月16日 - 1978年(昭和53年)12月13日)は、昭和期の大日本帝国海軍軍人。最終階級は従四位勲二等海軍少将。福井県丹生郡殿下村(現福井市風尾町)出身。長井斎藤別当実盛の後裔と伝える浄土真宗勝鬘寺の長井真応住職の四男。長兄に仏教学者長井真琴博士、三兄に真向法の創始者として知られる長井津がいる。弟の長井洗は陸軍中佐。 | ||
1月16日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
348 | 長谷川清 | Wikipedia |
長谷川 清(はせがわ きよし、1883年(明治16年)5月7日 - 1970年(昭和45年)9月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は正三位 勲一等 功一級 海軍大将。福井県足羽郡社村(現・福井市)出身。 | ||
5月7日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
349 | 松尾伝蔵 | Wikipedia |
松尾 伝蔵(まつお でんぞう、明治5年8月16日(1872年9月18日) - 昭和11年(1936年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 | ||
8月16日生まれの人  1872年生まれの人 | ||
350 | 岡田啓介 | Wikipedia |
岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日(慶応4年旧暦1月21日[注釈 1]) - 1952年(昭和27年)10月17日)は、日本の軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は勲一等功三級。 | ||
2月14日生まれの人  1868年生まれの人 |
福井県立若狭高等学校の出身者
351 | 佐久間勉 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 1910年4月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉。 | ||
福井県立若狭高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
9月13日生まれの人  1879年生まれの人 |
山梨県立甲府第一高等学校の出身者
352 | 堀内一雄 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月 - 1985年12月11日)は、日本の実業家、政治家、陸軍軍人。衆議院議員(5期)。父は堀内良平、息子は堀内光雄。最終階級は歩兵少佐、満州国陸軍少将。 | ||
山梨県立甲府第一高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1893年生まれの人 | ||
353 | 塚原二四三 南アルプス市 | Wikipedia |
塚原 二四三 (つかはら にしぞう、1887年(明治20年)4月3日 - 1966年(昭和41年)3月6日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 | ||
南アルプス市の出身者 | ||
4月3日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
354 | 今村均 仙台市 | Wikipedia |
今村 均(いまむら ひとし、1886年6月28日 - 1968年10月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。 | ||
仙台市の出身者 | ||
6月28日生まれの人  1886年生まれの人 |
山梨県立日川高等学校の出身者
355 | 山崎保代 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
山崎 保代(やまさき やすよ、1891年10月17日 - 1943年5月29日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争(大東亜戦争)中に、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。 | ||
山梨県立日川高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月17日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
356 | 水上源蔵 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
水上 源蔵(みなかみ / みずかみ げんぞう、1888年(明治21年)9月26日 - 1944年(昭和19年)8月4日は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
山梨県立日川高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月26日生まれの人  1888年生まれの人 |
長野県立長野高等学校の出身者
357 | 原田要 長野市 | Wikipedia |
原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 - 2016年(平成28年)5月3日)は、日本の海軍軍人、戦闘機操縦者、最終階級は海軍中尉。 | ||
長野市の出身者 | ||
8月11日生まれの人  1916年生まれの人 | ||
358 | 今井武夫 長野市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
今井 武夫(いまい たけお、1898年2月23日 - 1982年6月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
長野県立長野高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 長野市の出身者 | ||
2月23日生まれの人  1898年生まれの人 | ||
359 | 金子繁治 燕市 | Wikipedia |
金子 繁治(かねこ しげじ、1894年(明治27年)4月20日 - 1981年(昭和56年)2月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
燕市の出身者 | ||
4月20日生まれの人  1894年生まれの人 |
360 | 栗林忠道 長野市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 ‐ 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 | ||
長野県立長野高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 長野市の出身者 | ||
7月7日生まれの人  1891年生まれの人 |
長野県立上田高等学校の出身者
361 | 田中弥 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
田中 弥(たなか わたる、1900年10月13日 - 1936年10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。 | ||
長野県立上田高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月13日生まれの人  1900年生まれの人 |
長野県立小諸商業高等学校の出身者
362 | 渡辺静 | Wikipedia |
渡辺 静(わたなべ しずか、1923年4月15日 - 1945年6月6日)は、プロ野球選手(投手)、大日本帝国陸軍軍人。 | ||
4月15日生まれの人  1923年生まれの人 |
長野県立野沢北高等学校の出身者
363 | 細萱戊子郎 佐久市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6月24日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
長野県立野沢北高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 佐久市の出身者 | ||
6月24日生まれの人  1888年生まれの人 |
長野県立飯田高等学校の出身者
364 | 中原謹司 竜江村 早稲田大学へ進学 | Wikipedia |
中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 1951年3月1日)は日本の政治家。長野県の在郷軍人有志で結成された政治結社信州郷軍同志会の理論的指導者であり、大政翼賛会では中央協力会議部副部長として新体制運動を担った。号は起雲子。 | ||
長野県立飯田高等学校から早稲田大学への進学者 全国の早稲田大学の出身者 竜江村の出身者 | ||
2月7日生まれの人  1889年生まれの人 |
長野県立松本深志高等学校の出身者
365 | 上原良司 慶應義塾大学へ進学 | Wikipedia |
上原 良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。 陸軍特別攻撃隊第56振武隊員。 | ||
長野県立松本深志高等学校から慶應義塾大学への進学者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
9月27日生まれの人  1922年生まれの人 | ||
366 | 小岩井光夫 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
小岩井 光夫(こいわい みつお、1910年(明治43年)5月22日 - 1959年(昭和34年)2月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少佐。 | ||
長野県立松本深志高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
5月22日生まれの人  1910年生まれの人 | ||
367 | 島村信政 松本市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月7日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。殉職後は海軍大佐。 | ||
長野県立松本深志高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 松本市の出身者 | ||
8月7日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
368 | 柳田元三 塩尻市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。 | ||
長野県立松本深志高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 塩尻市の出身者 | ||
1月3日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
369 | 細見惟雄 松本市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日 - 1963年(昭和38年)8月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士25期。最終階級は陸軍中将。 | ||
長野県立松本深志高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 松本市の出身者 | ||
4月9日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
370 | 丸山政男 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
丸山 政男(まるやま まさお、1889年9月13日 - 1957年11月11日は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
長野県立松本深志高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月13日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
371 | 板花義一 安曇野市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
板花 義一(いたはな ぎいち、1889年1月29日 - 1961年10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
長野県立松本深志高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 安曇野市の出身者 | ||
1月29日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
372 | 清水光美 松本市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
清水光美(しみず みつみ、1888年(明治21年)3月16日 - 1971年(昭和46年)5月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
長野県立松本深志高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 松本市の出身者 | ||
3月16日生まれの人  1888年生まれの人 | ||
373 | 塩沢幸一 中川村 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。 | ||
長野県立松本深志高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 中川村の出身者 | ||
3月5日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
374 | 斎藤瀏 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年4月16日 - 1953年7月5日)は、日本の陸軍軍人、歌人。最終階級は陸軍少将。長女の斎藤史は同じく歌人。 | ||
長野県立松本深志高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
4月16日生まれの人  1879年生まれの人 |
長野県立大町岳陽高等学校の出身者
375 | 平林盛人 安曇野市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - 1969年5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。 | ||
長野県立大町岳陽高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 安曇野市の出身者 | ||
11月10日生まれの人  1887年生まれの人 |
岐阜県立岐阜高等学校の出身者
376 | 宮崎繁三郎 岐阜市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年)1月4日 - 昭和40年(1965年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
岐阜県立岐阜高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 岐阜市の出身者 | ||
1月4日生まれの人  1892年生まれの人 |
岐阜県立本巣松陽高等学校の出身者
377 | 豊田穣 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
豊田 穣(とよだ じょう、1920年(大正9年)3月14日 - 1994年(平成6年)1月30日)は、日本の小説家・作家、元海軍軍人(最終階級は海軍中尉)。 | ||
岐阜県立本巣松陽高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
3月14日生まれの人  1920年生まれの人 |
岐阜県立大垣北高等学校の出身者
378 | 井田正孝 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
井田 正孝(いだ まさたか、1912年10月5日 - 2004年2月6日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中佐。後に旧姓・岩田に復した。 | ||
岐阜県立大垣北高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月5日生まれの人  1912年生まれの人 | ||
379 | 田結穣 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
田結 穣(たゆい みのる、1890年(明治23年)1月20日 - 1977年(昭和52年)6月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
岐阜県立大垣北高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1月20日生まれの人  1890年生まれの人 |
静岡県立静岡高等学校の出身者
380 | 木村昌福 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
木村 昌福(きむら まさとみ、1891年(明治24年)12月6日 - 1960年(昭和35年)2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県生まれ。 | ||
静岡県立静岡高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
12月6日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
381 | 吉田増次郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
吉田 増次郎(よしだ ますじろう、1867年7月29日 (慶応3年6月28日) - 1942年3月14日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
静岡県立静岡高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
7月29日生まれの人  1867年生まれの人 |
静岡県立沼津東高等学校の出身者
382 | 和田稔 東京帝国大学へ進学 | Wikipedia |
和田 稔(わだ みのる、1922年1月13日 - 1945年7月25日)は、福岡県小倉出身の日本海軍軍人。最終階級は海軍少尉。 | ||
静岡県立沼津東高等学校から東京帝国大学への進学者 全国の東京帝国大学の出身者 | ||
1月13日生まれの人  1922年生まれの人 |
静岡県立掛川西高等学校の出身者
383 | 松浦永次郎 掛川市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)3月5日 - 1976年(昭和51年)11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県小笠郡掛川町(現掛川市)出身。 | ||
静岡県立掛川西高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 掛川市の出身者 | ||
3月5日生まれの人  1889年生まれの人 |
愛知県立旭丘高等学校の出身者
384 | 横井俊之 | Wikipedia |
横井 俊之(よこい としゆき、1897年3月11日 - 1969年12月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
3月11日生まれの人  1897年生まれの人 | ||
385 | 大林末雄 名古屋市 | Wikipedia |
大林 末雄(おおばやし すえお、1895年(明治28年)3月8日 - 1983年(昭和58年)4月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。愛知県宝飯郡上佐脇出身。 | ||
名古屋市の出身者 | ||
3月8日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
386 | 三輪茂義 | Wikipedia |
三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 1959年2月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
5月15日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
387 | 永津佐比重 | Wikipedia |
永津 佐比重(ながつ さひしげ、1889年(明治22年)3月1日 - 1979年(昭和54年)9月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
3月1日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
388 | 岩松義雄 | Wikipedia |
岩松 義雄(いわまつ よしお、1886年5月3日 - 1958年4月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
5月3日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
389 | 日比野正治 | Wikipedia |
日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月2日 - 1947年(昭和22年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
2月2日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
390 | 鷲津鈆平 | Wikipedia |
鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1970年2月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
1月20日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
391 | 荻洲立兵 | Wikipedia |
荻洲 立兵(おぎす りっぺい、1884年1月24日 - 1949年12月22日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
1月24日生まれの人  1884年生まれの人 | ||
392 | 大角岑生 稲沢市 | Wikipedia |
大角 岑生(おおすみ みねお、明治9年(1876年)5月1日 - 昭和16年(1941年)2月5日)は、大正から昭和にかけての日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。愛知県出身で本籍は高知県。 | ||
稲沢市の出身者 | ||
5月1日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
393 | 伊藤乙次郎 | Wikipedia |
伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日(慶応2年10月26日) - 1941年3月27日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
12月2日生まれの人  1866年生まれの人 | ||
394 | 八代六郎 犬山市 | Wikipedia |
八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1月25日)- 昭和5年(1930年)6月30日)は明治~大正期の日本海軍軍人。政治家。海軍大将。男爵。愛知県犬山市出身。兄は衆議院議員の松山義根。 | ||
犬山市の出身者 | ||
1月25日生まれの人  1860年生まれの人 |
愛知県立明和高等学校の出身者
395 | 堀栄三 五條市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
堀 栄三(ほり えいぞう、1913年(大正2年)10月16日 - 1995年(平成7年)6月5日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。階級は陸軍中佐、陸将補。 | ||
愛知県立明和高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 五條市の出身者 | ||
10月16日生まれの人  1913年生まれの人 | ||
396 | 森下信衛 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
森下 信衛(もりした のぶえ、1895年(明治28年)2月2日 - 1960年(昭和35年)6月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。愛知県出身。正しくは、「衛」ではなく旧字体の「衞」である。。 | ||
愛知県立明和高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月2日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
397 | 飯沼守 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
飯沼 守(いいぬま まもる、1888年11月25日 - 1978年3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
愛知県立明和高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月25日生まれの人  1888年生まれの人 |
愛知県立岡崎高等学校の出身者
398 | 嶋崎重和 奈良市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月9日 - 1945年(昭和20年)1月9日)は、日本の海軍軍人。空母「瑞鶴」飛行隊長として真珠湾攻撃で第二次攻撃隊長を務めた。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 | ||
愛知県立岡崎高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 奈良市の出身者 | ||
9月9日生まれの人  1908年生まれの人 | ||
399 | 酒井鎬次 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
酒井 鎬次(さかい こうじ、明治18年(1885年)11月4日 - 昭和48年(1973年)3月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。鎬次を「たかつぐ」と読む文献もあり、注意を要する。 | ||
愛知県立岡崎高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月4日生まれの人  1885年生まれの人 |
愛知県立刈谷高等学校の出身者
400 | 美濃部正 | Wikipedia |
美濃部 正(みのべ ただし、旧姓:太田(おおた)、1915年 - 1997年6月12日)は、旧日本海軍軍人、航空自衛官である。愛知県出身。海兵64期。最終階級は海軍において少佐、自衛隊において空将。 | ||
1915年生まれの人 |
愛知県立時習館高等学校の出身者
401 | 宮崎周一 飯田市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。 | ||
愛知県立時習館高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 飯田市の出身者 | ||
2月6日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
402 | 桜井省三 名古屋市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年6月27日 - 1985年7月7日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
愛知県立時習館高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 名古屋市の出身者 | ||
6月27日生まれの人  1889年生まれの人 |
三重県立四日市高等学校の出身者
403 | 水谷一生 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
水谷 一生(みずたに かずお、1899年(明治32年)4月22日 - 1949年(昭和24年)11月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 | ||
三重県立四日市高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
4月22日生まれの人  1899年生まれの人 |
三重県立四日市商業高等学校の出身者
404 | 平田佐貞 | Wikipedia |
平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 - 1938年(昭和13年)10月)は、日本の俳人・彫刻家・陸軍軍人。 | ||
1909年生まれの人 |
三重県立津高等学校の出身者
405 | 甘粕正彦 仙台市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年(明治24年)1月26日 - 1945年(昭和20年)8月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満洲映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した。 | ||
三重県立津高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 仙台市の出身者 | ||
1月26日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
406 | 西久保豊一郎 | Wikipedia |
西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日(1870年1月7日) - 明治38年(1905年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍歩兵少佐。栄典は正六位勲四等功四級。 | ||
12月6日生まれの人  1870年生まれの人 |
三重県立上野高等学校の出身者
407 | 嶋崎重和 奈良市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月9日 - 1945年(昭和20年)1月9日)は、日本の海軍軍人。空母「瑞鶴」飛行隊長として真珠湾攻撃で第二次攻撃隊長を務めた。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 | ||
三重県立上野高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 奈良市の出身者 | ||
9月9日生まれの人  1908年生まれの人 | ||
408 | 磯矢伍郎 | Wikipedia未登録 |
陸軍軍人。中将、陸軍参謀本部第3部長、マレー軍政監。 |
滋賀県立膳所高等学校の出身者
409 | 上阪香苗 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年(明治25年)10月8日 - 1974年(昭和49年)12月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。滋賀県大津市出身。 | ||
滋賀県立膳所高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月8日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
410 | 山内正文 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
山内 正文(やまうち まさふみ、1891年10月8日 - 1944年8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・秋山。 | ||
滋賀県立膳所高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月8日生まれの人  1891年生まれの人 |
滋賀県立彦根東高等学校の出身者
411 | 野村実 慶應義塾大学へ進学 | Wikipedia |
野村 実(野村 實 のむら みのる、1922年(大正11年)4月16日 - 2001年(平成13年)5月18日)は、日本の海軍軍人、軍事史研究者。専門は日本海軍史。 | ||
滋賀県立彦根東高等学校から慶應義塾大学への進学者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
4月16日生まれの人  1922年生まれの人 | ||
412 | 北野憲造 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月24日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
滋賀県立彦根東高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
8月24日生まれの人  1889年生まれの人 |
京都府立洛北高等学校の出身者
413 | 久邇宮徳彦王 | Wikipedia |
梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11月19日 - 2007年(平成19年)2月7日)は、日本の海軍軍人、皇族、華族。位階は従四位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終階級は海軍大尉。お印は鳳凰。 | ||
11月19日生まれの人  1922年生まれの人 | ||
414 | 永末英一 東京大学へ進学 | Wikipedia |
永末 英一(ながすえ えいいち、 1918年1月2日 - 1994年7月10日)は、大日本帝国海軍の軍人(短期現役士官)。日本の政治家。民社党委員長、衆議院議員(通算10期)、社会主義インターナショナル副議長。 | ||
京都府立洛北高等学校から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 | ||
1月2日生まれの人  1918年生まれの人 | ||
415 | 四手井綱正 | Wikipedia |
四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1945年8月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
1月27日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
416 | 森友一 | Wikipedia |
森 友一(もり ともかず/もり ともいち、1893年(明治26年)2月28日 - 1959年(昭和34年)1月23日)は、日本海軍の軍人。操艦の名手といわれ、太平洋戦争において重巡洋艦・「羽黒」艦長として歴戦。のち第一水雷戦隊司令官を務めた海軍少将である。 | ||
2月28日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
417 | 前田正実 | Wikipedia |
前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 1953年7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
11月10日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
418 | 小畑敏四郎 | Wikipedia |
小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は日本の陸軍軍人で陸軍中将。栄典は、正四位・勲一等(昭和20年8月19日時点)。高知県出身。 | ||
2月19日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
419 | 中村亀三郎 | Wikipedia |
中村 亀三郎(なかむら かめざぶろう、1884年1月28日 - 1944年11月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
1月28日生まれの人  1884年生まれの人 |
420 | 橋本虎之助 | Wikipedia |
橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)6月6日 - 1952年(昭和27年)1月26日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。愛知県出身。 | ||
6月6日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
421 | 山内静夫 | Wikipedia |
山内 静夫(やまのうち しずお、1876年(明治9年)8月3日 – 1961年(昭和36年)6月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。満洲電信電話株式会社総裁。旧名は岱亮。 | ||
8月3日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
422 | 久邇宮邦彦王 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年(明治6年)7月23日 - 1929年(昭和4年)1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級及び位階勲等は軍事参議官、陸軍大将、大勲位、功四級。贈元帥、贈大勲位菊花章頸飾。 | ||
京都府立洛北高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月23日生まれの人  1873年生まれの人 |
京都府立園部高等学校の出身者
423 | 畑中健二 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
畑中 健二(はたなか けんじ、1912年3月28日(明治45年) - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 | ||
京都府立園部高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月28日生まれの人  1912年生まれの人 |
大阪府立市岡高等学校の出身者
424 | 奥宮正武 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
奥宮 正武(おくみや まさたけ、1909年(明治42年)7月27日 - 2007年(平成19年)2月22日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は、海軍では海軍中佐、自衛隊では空将。 | ||
大阪府立市岡高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
7月27日生まれの人  1909年生まれの人 | ||
425 | 影佐禎昭 福山市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
影佐 禎昭(かげさ さだあき、明治26年(1893年)3月7日 - 昭和23年(1948年)9月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
大阪府立市岡高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 福山市の出身者 | ||
3月7日生まれの人  1893年生まれの人 |
大阪府立今宮高等学校の出身者
426 | 石井卓雄 福山市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
石井 卓雄(いしい たくお、1919年12月3日 - 1950年5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにベトナム独立戦争に参加して戦没。グエン・ソン将軍の軍政顧問。クァンガイ軍政学校教官。トゥイホア陸軍中学教官。ベトナム独立戦争時には、「花谷」「チャン・チ・ズン(陳志勇)」「トン」を名乗った。 | ||
大阪府立今宮高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 福山市の出身者 | ||
12月3日生まれの人  1919年生まれの人 |
大阪府立天王寺高等学校の出身者
427 | 仁科関夫 大津市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
仁科 関夫(にしな せきお、1923年(大正12年)4月10日 - 1944年(昭和19年)11月20日)は、日本の海軍軍人。海兵71期。太平洋戦争(大東亜戦争)の末期、人間魚雷「回天」を創案するとともに自らも出撃して戦死した。最終階級は海軍少佐。 | ||
大阪府立天王寺高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 大津市の出身者 | ||
4月10日生まれの人  1923年生まれの人 | ||
428 | 草鹿龍之介 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年(明治25年)9月25日 - 1971年(昭和46年)11月23日)は、日本の海軍軍人、剣道家。海軍兵学校41期生。海軍大学校21期。最終階級は中将。一刀正伝無刀流第4代宗家。 | ||
大阪府立天王寺高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
9月25日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
429 | 近藤信竹 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月25日 - 1953年(昭和28年)2月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 | ||
大阪府立天王寺高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
9月25日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
430 | 豊田貞次郎 東京外国語大学へ進学 | Wikipedia |
豊田 貞次郎(とよだ ていじろう、1885年(明治18年)8月7日 - 1961年(昭和36年)11月21日)は、日本の海軍軍人、政治家、実業家。最終階級は海軍大将。海兵33期首席。和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男。従二位勲一等。 | ||
大阪府立天王寺高等学校から東京外国語大学への進学者 全国の東京外国語大学の出身者 | ||
8月7日生まれの人  1885年生まれの人 |
大阪府立北野高等学校の出身者
431 | 三和義勇 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。海兵48期。最終階級は海軍少将。テニアン島で戦死。 | ||
大阪府立北野高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
4月26日生まれの人  1899年生まれの人 | ||
432 | 清河純一 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年1月7日 - 1935年3月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
大阪府立北野高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1月7日生まれの人  1878年生まれの人 | ||
433 | 植田謙吉 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年(明治8年)3月8日 - 1962年(昭和37年)9月11日)は、日本の陸軍軍人。陸士10期、陸大21期。陸軍大将正三位勲一等功三級。 | ||
大阪府立北野高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月8日生まれの人  1875年生まれの人 |
大阪府立茨木高等学校の出身者
434 | 小畑信良 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月29日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兄に小畑英良。 | ||
大阪府立茨木高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月29日生まれの人  1897年生まれの人 |
大阪府立富田林高等学校の出身者
435 | 林弥一郎 藤井寺市 | Wikipedia |
林 弥一郎(はやし やいちろう、1911年9月2日 - 1999年8月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍少佐。日中友好会会長。中国人民解放軍空軍の父。大阪府出身。 | ||
藤井寺市の出身者 | ||
9月2日生まれの人  1911年生まれの人 |
大阪高等学校の出身者
436 | 水木しげる 境港市 武蔵野美術大学へ進学 | Wikipedia |
水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年[注 1]3月8日 - 2015年11月30日)は、日本の漫画家。文化功労者、傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。 | ||
大阪高等学校から武蔵野美術大学への進学者 全国の武蔵野美術大学の出身者 境港市の出身者 | ||
3月8日生まれの人  1922年生まれの人 |
兵庫県立神戸高等学校の出身者
437 | 宮崎俊男 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
宮嵜 俊男(みやざき としお、1899年(明治32年)10月18日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は、日本の海軍軍人。米駐在時代に情報活動に従事し、米国官憲に摘発され国外追放処分を受ける。太平洋戦争中、連合艦隊先任参謀に擬せられるが、山本五十六の戦死により実現しなかった。最終階級は海軍大佐。 | ||
兵庫県立神戸高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月18日生まれの人  1899年生まれの人 | ||
438 | 四方諒二 神戸市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
四方 諒二(しかた りょうじ、明治29年(1896年)4月28日 - 昭和52年(1977年)12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
兵庫県立神戸高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 神戸市の出身者 | ||
4月28日生まれの人  1896年生まれの人 | ||
439 | 小島秀雄 神戸市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
小島 秀雄(こじま ひでお、1896年4月5日 - 1982年3月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。3度に及ぶドイツ駐在歴があり、戦後には日独友好にも尽力した。 | ||
兵庫県立神戸高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
4月5日生まれの人  1896年生まれの人 |
440 | 奥田喜久司 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4日 - 1939年(昭和14年)11月4日)は、日本の海軍軍人。少年飛行兵制度を発案することで予科練に至る基礎をつくり、のちに航空隊司令として作戦指揮中に戦死した海軍少将である。 | ||
兵庫県立神戸高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月4日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
441 | 酒井隆 東広島市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
酒井 隆(さかい たかし、1887年10月18日 - 1946年9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争勃発時に第23軍司令官として香港を攻略した。 | ||
兵庫県立神戸高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 東広島市の出身者 | ||
10月18日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
442 | 寺本武治 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 1958年12月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
兵庫県立神戸高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月25日生まれの人  1884年生まれの人 |
兵庫県立洲本高等学校の出身者
443 | 儀我誠也 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
儀我 誠也(ぎが せいや、1888年11月11日 - 1938年1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
兵庫県立洲本高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月11日生まれの人  1888年生まれの人 |
兵庫県立篠山鳳鳴高等学校の出身者
444 | 笠井智一 | Wikipedia |
笠井 智一(かさい ともかず、1926年(大正15年)3月8日 - )は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍上等飛行兵曹。太平洋戦争におけるエース・パイロット。 | ||
3月8日生まれの人  1926年生まれの人 | ||
445 | 樋口季一郎 南あわじ市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年8月20日 - 1970年10月11日)は、日本の陸軍軍人。兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 | ||
兵庫県立篠山鳳鳴高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 南あわじ市の出身者 | ||
8月20日生まれの人  1888年生まれの人 | ||
446 | 磯谷廉介 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年9月3日 - 1967年6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争期に日本占領下の香港で総督を務めた。 | ||
兵庫県立篠山鳳鳴高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月3日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
447 | 河本大作 佐用町 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
河本 大作(こうもと だいさく、1883年(明治16年)1月24日 - 1955年(昭和30年)8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の首謀者として知られる。 | ||
兵庫県立篠山鳳鳴高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 佐用町の出身者 | ||
1月24日生まれの人  1883年生まれの人 | ||
448 | 安藤紀三郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年2月11日 - 1954年5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。 | ||
兵庫県立篠山鳳鳴高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
2月11日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
449 | 本庄繁 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年(明治9年)5月10日 - 1945年(昭和20年)11月20日)は、日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。長男一雄は陸軍主計中佐。娘は山口一太郎陸軍大尉に嫁ぐ。本庄は書を心得、剣華と号す。渾名は「たくわん石」。 | ||
兵庫県立篠山鳳鳴高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
5月10日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
450 | 本郷房太郎 篠山市 | Wikipedia |
本郷 房太郎(ほんごう ふさたろう、万延元年1月24日(1860年2月15日) - 昭和6年(1931年)3月20日)は、日本の陸軍軍人。軍事参議官・青島守備軍司令官や第1・第17師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功三級。軍を退いてからは久邇宮宮務監督や大日本武徳会長を務める。 | ||
篠山市の出身者 | ||
1月24日生まれの人  1860年生まれの人 |
兵庫県立龍野高等学校の出身者
451 | 西田正雄 たつの市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
西田 正雄(にしだ まさお、1895年(明治28年)10月26日 - 1974年(昭和49年)3月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 | ||
兵庫県立龍野高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 たつの市の出身者 | ||
10月26日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
452 | 島津信夫 | Wikipedia |
島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日 - 1990年(平成2年))は大正から昭和期の海軍軍人。正五位勲三等。最終階級は海軍大佐。 | ||
1月3日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
453 | 田中静壱 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 - 1945年(昭和20年)8月24日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将、従三位、勲一等瑞宝章、功三級金鵄勲章。 | ||
兵庫県立龍野高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月1日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
454 | 藤江恵輔 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
藤江 恵輔(ふじえ けいすけ、1885年(明治18年)11月8日 - 1969年(昭和44年)2月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。 | ||
兵庫県立龍野高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月8日生まれの人  1885年生まれの人 |
兵庫県立豊岡高等学校の出身者
455 | 庵原貢 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
庵原 貢(いはら みつぐ、1903年(明治36年)10月3日 - 1979年(昭和54年)3月31日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官である。海軍兵学校卒業(第52期)。第3代海上幕僚長。 | ||
兵庫県立豊岡高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月3日生まれの人  1903年生まれの人 |
奈良県立畝傍高等学校の出身者
456 | 吉田之久 京都大学へ進学 | Wikipedia |
吉田 之久(よしだ ゆきひさ、1926年12月4日 - 2003年3月24日)は、日本の元軍人、政治家。海兵74期。最終階級は少尉。戦後衆議院議員(通算7期)、参議院議員(連続2期)。奈良県磯城郡田原本町出身。 | ||
奈良県立畝傍高等学校から京都大学への進学者 全国の京都大学の出身者 | ||
12月4日生まれの人  1926年生まれの人 | ||
457 | 淵田美津雄 葛城市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月3日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の海軍軍人、キリスト教伝道者。海軍兵学校52期。最終階級は海軍大佐。 | ||
奈良県立畝傍高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 葛城市の出身者 | ||
12月3日生まれの人  1902年生まれの人 |
和歌山県立海南高等学校の出身者
458 | 小野田寛郎 海南市 | Wikipedia |
小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年)3月19日 - 平成26年(2014年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。 | ||
海南市の出身者 | ||
3月19日生まれの人  1922年生まれの人 |
和歌山県立桐蔭高等学校の出身者
459 | 西浦進 | Wikipedia |
西浦 進(にしうら すすむ、1901年(明治34年)12月4日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大佐。陸軍士官学校34期(秩父宮を除き3番、恩賜)、陸軍大学校42期(首席)。陸軍士官学校同期の服部卓四郎および堀場一雄と並び「34期三羽烏」と称された[1]。主に陸軍省軍務局に属して軍政に従事、太平洋戦争開戦前後には東條英機首相兼陸軍大臣の大臣秘書官を務めた。戦後は太平洋戦争史の調査研究に注力し、防衛庁防衛研修所戦史室の初代室長として『戦史叢書』の編纂を進めた。 | ||
12月4日生まれの人  1901年生まれの人 |
460 | 榎本隆一郎 | Wikipedia |
榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 - 1987年2月7日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中将。 | ||
2月8日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
461 | 林義秀 | Wikipedia |
林 義秀(はやし よしひで、1891年8月25日 - 1978年2月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
8月25日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
462 | 稲垣生起 和歌山市 | Wikipedia |
稲垣 生起(いながき あやお、1890年(明治23年)2月20日 - 1942年(昭和17年)9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
和歌山市の出身者 | ||
2月20日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
463 | 寺島健 田辺市 | Wikipedia |
寺島 健(てらじま けん、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。 | ||
田辺市の出身者 | ||
9月23日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
464 | 野村吉三郎 和歌山市 | Wikipedia |
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)12月16日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。海兵26期次席。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。 | ||
和歌山市の出身者 | ||
12月16日生まれの人  1877年生まれの人 |
和歌山県立日高高等学校の出身者
465 | 椎崎二郎 | Wikipedia |
椎崎 二郎(しいざき じろう、1911年9月20日 - 1945年8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。 | ||
9月20日生まれの人  1911年生まれの人 |
鳥取県立鳥取西高等学校の出身者
466 | 猪口敏平 鳥取市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月11日 - 1944年(昭和19年)10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦武蔵最後の艦長として知られる。 | ||
鳥取県立鳥取西高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 鳥取市の出身者 | ||
8月11日生まれの人  1896年生まれの人 | ||
467 | 岡田資 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949年9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
鳥取県立鳥取西高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
4月14日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
468 | 西尾寿造 鳥取市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月31日 − 昭和35年(1960年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功一級。初代支那派遣軍総司令官。 | ||
鳥取県立鳥取西高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 鳥取市の出身者 | ||
10月31日生まれの人  1881年生まれの人 |
島根県立松江北高等学校の出身者
469 | 田中隆吉 安来市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 | ||
島根県立松江北高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 安来市の出身者 | ||
7月9日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
470 | 山田定義 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
山田 定義(やまだ さだよし、1892年11月26日 - 1971年11月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
島根県立松江北高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月26日生まれの人  1892年生まれの人 |
島根県立大社高等学校の出身者
471 | 中山定義 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月16日 - 1995年(平成7年)1月16日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。第4代海上幕僚長。島根県出雲市出身。東京都目黒区在住であった。長男は第10代明治学院長の中山弘正。 | ||
島根県立大社高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月16日生まれの人  1905年生まれの人 |
島根県立隠岐水産高等学校の出身者
472 | 島内桓太 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
島内 桓太(しまのうち かんた、1871年1月31日(明治3年12月11日) - 1940年9月19日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
島根県立隠岐水産高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1月31日生まれの人  1871年生まれの人 |
岡山県立岡山朝日高等学校の出身者
473 | 額田坦 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
額田 坦(ぬかた ひろし、1895年9月5日 - 1976年9月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
岡山県立岡山朝日高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月5日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
474 | 宇垣纏 岡山市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
宇垣 纏(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。 | ||
岡山県立岡山朝日高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 岡山市の出身者 | ||
2月15日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
475 | 坂野常善 岡山市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
坂野 常善(さかの つねよし、1884年(明治17年)12月1日 - 1971年(昭和46年)9月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
岡山県立岡山朝日高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 岡山市の出身者 | ||
12月1日生まれの人  1884年生まれの人 | ||
476 | 谷寿夫 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
岡山県立岡山朝日高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月23日生まれの人  1882年生まれの人 |
岡山県立津山高等学校の出身者
477 | 花谷正 津山市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 - 1957年(昭和32年)8月28日)は、日本の陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
岡山県立津山高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 津山市の出身者 | ||
1月5日生まれの人  1894年生まれの人 |
金光学園高等学校の出身者
478 | 立花芳夫 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。愛媛県出身。陸軍士官学校卒業(25期)。兵科は歩兵科。功四級。 | ||
金光学園高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
2月24日生まれの人  1890年生まれの人 |
広島県立広島国泰寺高等学校の出身者
479 | 進藤三郎 呉市 | Wikipedia |
進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月28日 - 2000年(平成12年)2月2日)は、神奈川県横須賀市出身の日本海軍軍人。海兵60期。 | ||
呉市の出身者 | ||
8月28日生まれの人  1911年生まれの人 |
480 | カール・ヨネダ | Wikipedia |
カール・ゴーゾー・ヨネダ(Karl Gozo Yoneda、日本名:米田 剛三(よねだ ごうぞう)、1906年7月15日 - 1999年)は、アメリカ合衆国の労働運動家、ジャーナリスト、軍人。国際港湾倉庫労働組合設立の際は、主導的な役割を果たした。 | ||
1906年生まれの人 | ||
481 | 源田実 太田町 | Wikipedia |
源田 実(げんだ みのる、源田 實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。航空自衛隊の育ての親。政治家としては参議院議員を4期24年務めた。赤十字飛行隊の初代飛行隊長を務める。 | ||
太田町の出身者 | ||
8月16日生まれの人  1904年生まれの人 | ||
482 | 杉山茂 | Wikipedia |
杉山 茂(すぎやま しげる、1902年(明治35年)4月28日 - 1982年(昭和57年)1月29日)は、日本の陸軍軍人及び陸上自衛官。陸士36期、陸大45期。第2代陸上幕僚長。戦後、服部卓四郎他からの勧めで東條英機の娘、東條光枝と結婚する。 | ||
4月28日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
483 | 岩畔豪雄 倉橋島 | Wikipedia |
岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1970年11月22日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍少将。後方勤務要員養成所(陸軍中野学校)設立者、京都産業大学設立者の一人で元理事。 | ||
倉橋島の出身者 | ||
10月10日生まれの人  1897年生まれの人 | ||
484 | 西原一策 | Wikipedia |
西原 一策(にしはら いっさく、1893年4月18日 - 1945年1月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1940年の北部仏印進駐時の「西原・マルタン協定」の当事者として知られる。 | ||
4月18日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
485 | 小川貫爾 | Wikipedia |
小川 貫爾(おがわ かんじ、1893年(明治26年)9月10日 - 1973年(昭和48年)1月23日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。広島県広島市中区出身。 | ||
9月10日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
486 | 三川軍一 | Wikipedia |
三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年8月29日 - 1981年2月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
8月29日生まれの人  1888年生まれの人 | ||
487 | 木村兵太郎 | Wikipedia |
木村 兵太郎(きむら へいたろう、明治21年(1888年)9月28日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の昭和期の陸軍軍人。太平洋戦争(大東亜戦争)後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。最終階級は陸軍大将。 | ||
9月28日生まれの人  1888年生まれの人 | ||
488 | 佐々木到一 | Wikipedia |
佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1955年5月30日)は、日本の陸軍の軍人。陸士18期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。陸軍きっての中国通で、蒋介石以下国民党領袖のほとんどと親しく、国民党の革命にも理解をよく理解を示した。人民服(中山装)の考案、デザインを行った事でも有名。 | ||
1月27日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
489 | 桑木崇明 | Wikipedia |
桑木 崇明(くわき たかあきら、1885年10月22日 - 1945年12月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
10月22日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
490 | 末次信正 | Wikipedia |
末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年(明治13年)6月30日[注 1] - 1944年(昭和19年)12月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、従二位・勲一等。第1次近衛内閣の内務大臣。坊の岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。 | ||
6月30日生まれの人  1880年生まれの人 |
広島県立福山誠之館高等学校の出身者
491 | 小林躋造 広島市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年(明治10年)10月1日 - 1962年(昭和37年)7月4日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。小磯國昭内閣の国務大臣。広島県広島市出身。 | ||
広島県立福山誠之館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 広島市の出身者 | ||
10月1日生まれの人  1877年生まれの人 | ||
492 | 木村茂 福山市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 - 1972年8月25日)は、日本の陸軍軍人。歩兵将校の後主計に転じ、陸軍被服本廠長・第1師団経理部長・陸軍経理学校長を歴任する。階級は陸軍主計総監。 | ||
広島県立福山誠之館高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 福山市の出身者 | ||
2月11日生まれの人  1873年生まれの人 | ||
493 | 藤井包総 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
藤井 包總(ふじい かねすけ、1850年2月25日(嘉永3年1月14日) - 1925年(大正14年)12月5日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 | ||
広島県立福山誠之館高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
2月25日生まれの人  1850年生まれの人 |
広島県立呉三津田高等学校の出身者
494 | 栗栖弘臣 呉市 東京大学へ進学 | Wikipedia |
栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年(大正9年)2月27日 - 2004年(平成16年)7月19日)は、日本の内務省官僚、海軍軍人及び陸上自衛官。第12代陸上幕僚長、第10代統合幕僚会議議長。 | ||
広島県立呉三津田高等学校から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 呉市の出身者 | ||
2月27日生まれの人  1920年生まれの人 |
広島県立日彰館高等学校の出身者
495 | 妹尾知之 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
妹尾 知之(せのお ともゆき、明治24年〈1891年〉 - 昭和59年〈1984年〉)は、日本の海軍軍人。海軍中将。海軍兵学校40期生。海軍大学校22期生。 | ||
広島県立日彰館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1891年生まれの人 | ||
496 | 山口二三 | Wikipedia未登録 |
陸軍軍人、陸軍少佐、航空幕僚監部防衛部長 |
広島県立府中高等学校の出身者
497 | 江草隆繁 福山市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4日 - 1944年(昭和19年)6月15日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。五二一空陸上爆撃機搭乗員として参加したあ号作戦で戦死した。最終階級は海軍大佐。 | ||
広島県立府中高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 福山市の出身者 | ||
9月4日生まれの人  1909年生まれの人 |
広島県立忠海高等学校の出身者
498 | 後勝 三原市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
後 勝(うしろ まさる、1914年 - )は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 | ||
広島県立忠海高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 三原市の出身者 | ||
1914年生まれの人 | ||
499 | 新見政一 広島市 海軍砲術学校へ進学 | Wikipedia |
新見 政一(にいみ まさいち、1887年(明治20年)2月4日 - 1993年(平成5年)4月2日)は、日本の海軍軍人、戦史研究家。最終階級は海軍中将。 | ||
広島県立忠海高等学校から海軍砲術学校への進学者 全国の海軍砲術学校の出身者 広島市の出身者 | ||
2月4日生まれの人  1887年生まれの人 |
山陽高等学校の出身者
500 | ハリー・K・フクハラ | Wikipedia |
ハリー・カツジ・フクハラ(Harry Katsuji Fukuhara、日本名:福原 克治(ふくはら かつじ)、1920年1月1日 - 2015年4月8日)は、元アメリカ陸軍情報部所属の軍人。最終階級は大佐。 | ||
1月1日生まれの人  1920年生まれの人 |
修道高等学校の出身者
501 | 河石達吾 大柿村 慶應義塾大学へ進学 | Wikipedia |
河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月10日 - 1945年(昭和20年)3月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍大尉。水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形銀メダリスト。慶應義塾大学法学部出身。 | ||
修道高等学校から慶應義塾大学への進学者 全国の慶應義塾大学の出身者 大柿村の出身者 | ||
12月10日生まれの人  1911年生まれの人 | ||
502 | 永井貞三 | Wikipedia |
永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将[3]。広島県出身。 | ||
1901年生まれの人 | ||
503 | 扇一登 | Wikipedia |
扇 一登(おうぎ かずと、1901年(明治34年)5月24日 - 2004年(平成16年)1月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大佐。海兵51期、海大32期。広島県旧世羅郡三川村出身。 | ||
5月24日生まれの人  1901年生まれの人 | ||
504 | 杉本五郎 広島市 | Wikipedia |
杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。 | ||
広島市の出身者 | ||
5月25日生まれの人  1900年生まれの人 | ||
505 | 桑原支那吉 | Wikipedia |
桑原 支那吉(くわばら しなきち、1895年(明治28年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。広島県出身。 | ||
10月7日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
506 | 伊藤良秋 | Wikipedia |
伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。広島県出身。 | ||
1893年生まれの人 | ||
507 | 三戸寿 | Wikipedia |
三戸 寿(みと ひさし・三戸 壽、1891年11月9日 - 1967年5月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将、海軍省廃止時の海軍次官。潜水艦の権威者であった。 | ||
11月9日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
508 | 星野応韶 | Wikipedia |
星野 応韶(ほしの まさつぐ、1890年(明治23年)10月14日 - 1965年(昭和40年)1月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
10月14日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
509 | 多田勉吉 | Wikipedia |
多田 勉吉(ただ べんきち、1889年(明治22年)9月19日 - 1958年(昭和33年)4月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。広島県出身。 | ||
9月19日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
510 | 国崎登 | Wikipedia |
国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20日 - 1960年(昭和35年)11月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
8月20日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
511 | 金子養三 | Wikipedia |
金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月11日 - 1941年(昭和16年)12月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の最初期の搭乗員で、また搭乗員経験者として最初の将官となった。日本海軍飛行機の元祖、また海鷲育ての親ともいわれる人物である。 | ||
6月11日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
512 | 重村義一 | Wikipedia |
重村 義一(しげむら ぎいち、1875年(明治8年)2月14日 - 1938年(昭和13年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。広島県出身。 | ||
2月14日生まれの人  1875年生まれの人 | ||
513 | 池田岩三郎 | Wikipedia |
池田 岩三郎(いけだ いわさぶろう、1874年(明治7年)8月23日 - 1937年(昭和12年)2月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。広島県出身。 | ||
8月23日生まれの人  1874年生まれの人 | ||
514 | 橋本又吉郎 | Wikipedia |
橋本 又吉郎(はしもと またきちろう、1866年1月31日(慶応元年12月15日) - 1928年(昭和3年)6月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。現在の広島県出身。 | ||
1月31日生まれの人  1866年生まれの人 | ||
515 | 加藤友三郎 広島市 | Wikipedia |
加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日(文久元年2月22日) - 1923年(大正12年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、没後 元帥海軍大将。日露戦争で連合艦隊参謀長(日本海海戦時、第一艦隊参謀長兼任)、ワシントン会議で日本首席全権委員を務める。海軍大臣(第20-24代)、内閣総理大臣(第21代)を歴任し、山梨軍縮やシベリア出兵撤兵を成し遂げた。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。 | ||
広島市の出身者 | ||
4月1日生まれの人  1861年生まれの人 | ||
516 | 香川富太郎 | Wikipedia |
香川 富太郎(かがわ とみたろう、1853年9月25日(嘉永6年8月23日) - 1937年(昭和12年)12月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。安芸国(現・広島県)出身。 | ||
9月25日生まれの人  1853年生まれの人 | ||
517 | 村上敬次郎 | Wikipedia |
村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(1853年10月6日) - 昭和4年(1929年)2月15日)は、安芸国(現広島県)出身の官僚、大日本帝国海軍軍人。貴族院議員、男爵、勲一等旭日大綬章。 | ||
9月4日生まれの人  1853年生まれの人 | ||
518 | 佐藤正 | Wikipedia |
佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 大正9年(1920年)4月27日)は、明治時代の陸軍軍人。階級は陸軍少将、位階は従二位功四級。広島県広島市出身。広島県平民。歩兵第18連隊長、第3代広島市長、宮中顧問官等を歴任する。 | ||
6月1日生まれの人  1849年生まれの人 | ||
519 | 小鷹狩元凱 | Wikipedia |
小鷹狩 元凱(こたかり もとよし)は明治時代の軍人、政治家、郷土史家。号は預園、後に弘洲。旧広島藩士。維新後陸軍に出仕して徴兵事務に携わり、大尉まで進むも、薩長による藩閥に反発して立憲改進党に入党し、自由民権運動に携わった。帝国議会開設後、度々衆議院議員総選挙に出馬するも苦戦し、一期務めたのみで引退、晩年は芸備協会での育英事業に専念し、また広島の藩政時代等についての事跡を書き残した。 |
崇徳学園の出身者
520 | 進藤三郎 呉市 | Wikipedia |
進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月28日 - 2000年(平成12年)2月2日)は、神奈川県横須賀市出身の日本海軍軍人。海兵60期。 | ||
呉市の出身者 | ||
8月28日生まれの人  1911年生まれの人 | ||
521 | 岡部直三郎 広島市 | Wikipedia |
岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年9月30日 - 1946年11月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。北支那方面軍総司令官、第3方面軍司令官、第6方面軍司令官。 | ||
広島市の出身者 | ||
9月30日生まれの人  1887年生まれの人 |
広島県新庄学園の出身者
522 | 上田定( | Wikipedia未登録 |
海軍軍人、真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に乗組み他の8人と共に戦死。9軍神と讃えられた。〈旧制新庄中学校〉 |
山口県立徳山高等学校の出身者
523 | 飯田房太 周南市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
飯田 房太(いいだ ふさた、1913年(大正2年)2月12日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍中佐。 | ||
山口県立徳山高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 周南市の出身者 | ||
2月12日生まれの人  1913年生まれの人 | ||
524 | 山縣正郷 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
山縣 正郷(やまがた まさくに、有職読み:せいごう、新字体:山県、1891年(明治24年)2月15日 ‐ 1945年(昭和20年)3月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 | ||
山口県立徳山高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月15日生まれの人  1891年生まれの人 |
山口県立防府高等学校の出身者
525 | 豊嶋房太郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年1月5日 - 1979年4月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
山口県立防府高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月5日生まれの人  1889年生まれの人 |
山口県立山口高等学校の出身者
526 | 志賀淑雄 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
志賀 淑雄(しが よしお、1914年(大正3年)- 2005年 (平成17年)11月25日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。最終階級は海軍少佐。東京都出身。旧姓は四元。 | ||
山口県立山口高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1914年生まれの人 | ||
527 | 田中頼三 山口市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月27日 - 1969年(昭和44年)7月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
山口県立山口高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 山口市の出身者 | ||
4月27日生まれの人  1892年生まれの人 | ||
528 | 金沢正夫 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年10月25日 - 1969年6月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
山口県立山口高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月25日生まれの人  1889年生まれの人 |
山口県立萩高等学校の出身者
529 | 阿武天風 萩市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年(明治15年)9月8日 - 1928年(昭和3年)6月22日)は日本の軍人、小説家、編集者。雑誌『冒険世界』の主筆を務めるなどして、冒険小説を多く発表した。代表作に『太陽は勝てり』など。 | ||
山口県立萩高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 萩市の出身者 | ||
9月8日生まれの人  1882年生まれの人 |
徳島県立城南高等学校の出身者
530 | 高橋赫一 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11月29日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。珊瑚海海戦に空母「翔鶴」艦上爆撃機搭乗員として参加し、米空母「レキシントン」攻撃後に戦死。最終階級は海軍大佐。 | ||
徳島県立城南高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月29日生まれの人  1906年生まれの人 | ||
531 | 阿南惟幾 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
阿南 惟幾(あなみ これちか)は、1887年(明治20年)2月21日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。 | ||
徳島県立城南高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
2月21日生まれの人  1887年生まれの人 |
徳島県立脇町高等学校の出身者
532 | 酒巻和男 阿波市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
酒巻 和男(さかまき かずお、1918年(大正7年)11月8日 - 1999年(平成11年)11月29日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として参加。艇が座礁し、最初の日本人捕虜となる。最終階級は海軍少尉。 | ||
徳島県立脇町高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 阿波市の出身者 | ||
11月8日生まれの人  1918年生まれの人 |
徳島県立池田高等学校の出身者
533 | 檜與平 | Wikipedia |
檜 與平(ひのき よへい、1920年 - 1991年、桧 与平)は、日本の陸軍軍人。戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少佐。徳島県出身。 | ||
1920年生まれの人 |
香川県立三本松高等学校の出身者
534 | 樋端久利雄 | Wikipedia |
樋端 久利雄(といばた くりお/といばな くりお、1903年(明治36年)8月1日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。海軍甲事件で搭乗機(「一式陸攻」)を撃墜され、戦死。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍大佐。 | ||
8月1日生まれの人  1903年生まれの人 |
香川県立丸亀高等学校の出身者
535 | 宮崎勇 東京大学へ進学 | Wikipedia |
宮崎 勇(みやざき いさむ、宮﨑 勇、1919年(大正8年)10月5日 - 2012年(平成24年)4月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。太平洋戦争における撃墜王。 | ||
香川県立丸亀高等学校から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 | ||
10月5日生まれの人  1919年生まれの人 | ||
536 | 原田熊吉 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年8月8日 - 1947年5月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。香川県生まれ、大阪府出身。陸士22期、陸大28期。 | ||
香川県立丸亀高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
8月8日生まれの人  1888年生まれの人 |
香川県立観音寺第一高等学校の出身者
537 | 田辺弥八 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月13日 - 1990年(平成2年)4月29日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において米空母ヨークタウンを撃沈した「伊一六八」潜水艦長でもある。最終階級は海軍中佐。 | ||
香川県立観音寺第一高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月13日生まれの人  1905年生まれの人 | ||
538 | 矢野英雄 三豊市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
矢野 英雄(やの ひでお、1894年(明治27年)11月1日 - 1944年(昭和19年)7月8日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。サイパンで戦死、特進により最終階級は海軍中将。 | ||
香川県立観音寺第一高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 三豊市の出身者 | ||
11月1日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
539 | 片桐茂 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18日 - 1944年(昭和19年)4月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
香川県立観音寺第一高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
3月18日生まれの人  1892年生まれの人 |
540 | 秋山門造 | Wikipedia |
秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12月30日 - 1944年(昭和19年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵42期。太平洋戦争におけるクェゼリンの戦いで司令官として戦死した。死後特進により最終階級は海軍中将。 | ||
12月30日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
541 | 斎藤弥平太 三豊市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
斎藤 弥平太(さいとう やへいた、1885年(明治18年)9月28日 - 没年不詳(1953年(昭和28年)9月28日、戦時死亡宣告))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
香川県立観音寺第一高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 三豊市の出身者 | ||
9月28日生まれの人  1885年生まれの人 |
愛媛県立西条高等学校の出身者
542 | 関行男 西条市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
関 行男(せき ゆきお/つらお[注釈 1]、1921年8月29日 - 1944年10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」の隊長として特攻し、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したことで、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。特攻による二階級特進で最終階級は海軍中佐。 | ||
愛媛県立西条高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 西条市の出身者 | ||
8月29日生まれの人  1921年生まれの人 | ||
543 | 田坂専一 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 1979年12月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
愛媛県立西条高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
11月8日生まれの人  1892年生まれの人 |
愛媛県立今治西高等学校の出身者
544 | 渡辺正夫 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
渡辺 正夫(わたなべ まさお、1888年10月10日 - 1950年10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
愛媛県立今治西高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
10月10日生まれの人  1888年生まれの人 |
愛媛県立松山東高等学校の出身者
545 | 吉川猛夫 | Wikipedia |
吉川 猛夫(よしかわ たけお、1912年(明治45年)3月7日 - 1993年(平成5年)2月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。 | ||
3月7日生まれの人  1912年生まれの人 | ||
546 | 玉井浅一 | Wikipedia |
玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1964年12月10日)は、日本の海軍軍人。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 | ||
12月25日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
547 | 山本親雄 | Wikipedia |
山本 親雄(やまもと ちかお、1896年(明治29年)10月13日 - 1980年(昭和55年)11月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
10月13日生まれの人  1896年生まれの人 | ||
548 | 矢野志加三 | Wikipedia |
矢野 志加三(やの しかぞう、1893年(明治26年)8月5日 - 1966年(昭和41年)1月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
8月5日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
549 | 佗美浩 | Wikipedia |
佗美 浩(たくみ ひろし、1891年5月2日 - 1970年12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。太平洋戦争開戦直後のコタバル上陸作戦を指揮した。 | ||
5月2日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
550 | 田辺盛武 | Wikipedia |
田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 1949年7月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 オランダ領東インド | ||
2月26日生まれの人  1889年生まれの人 | ||
551 | 安達東三郎 | Wikipedia |
安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1887年(明治20年) - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。試験飛行中に搭乗機が墜落し他の乗員二人とともに殉職したが、安達らの殉職は海軍搭乗員の日本国内における殉職としては最初の事例となった[注 1]。最終階級は海軍大尉。 | ||
1887年生まれの人 | ||
552 | 籾山重幸 | Wikipedia |
籾山 重幸(もみやま しげゆき、1881年9月11日 - 1957年11月26日)は、日本海軍の軍人。 最終階級は海軍大佐。 | ||
9月11日生まれの人  1881年生まれの人 | ||
553 | 相原四郎 | Wikipedia |
相原 四郎(あいばら しろう[注 1]、1879年(明治12年)10月2日 - 1911年(明治44年)1月8日)は、日本の海軍軍人。 日本海軍の最初の搭乗員であり、また日本初の航空事故犠牲者とする見解もある。相原は仏海軍士官ル・プリウール、田中舘愛橘と協力して日本で最初のグライダー製作および飛行の成功に貢献し自らも搭乗した。この成功は日本における航空工学に則った機体飛行の最初の事例であった[3]。最終階級は海軍大尉。 | ||
10月2日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
554 | 櫻井忠温 | Wikipedia |
櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月11日 - 1965年(昭和40年)9月17日)は、日本陸軍軍人、作家。最終階級は陸軍少将。翻訳家、教育者の櫻井鴎村は実兄。木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。 | ||
6月11日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
555 | 重岡信治郎 | Wikipedia |
重岡 信治郎(しげおか のぶじろう 1879年(明治12年)5月10日 - 1971年(昭和46年)1月16日)は、日本の海軍軍人。井出謙治らに続き、潜水艦の拡充に尽力した海軍中将である。 なお"重岡信次郎"とする資料もある。 | ||
5月10日生まれの人  1879年生まれの人 | ||
556 | 川島義之 | Wikipedia |
川島 義之(かわしま よしゆき、明治11年(1878年)5月25日 - 昭和20年(1945年)9月8日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。愛媛県生まれ。 | ||
5月25日生まれの人  1878年生まれの人 | ||
557 | 水野廣徳 | Wikipedia |
水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年(1875年)5月24日 - 昭和20年(1945年)10月18日)は、日本海軍の軍人・軍事評論家。最終階級は海軍大佐。父は旧松山藩能方の水野光之で末子。 | ||
5月24日生まれの人  1875年生まれの人 | ||
558 | 櫻井鴎村 | Wikipedia |
櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1929年(昭和4年)2月27日)は日本の翻訳家、児童文学者、教育者、実業家である。本名は彦一郎(ひこいちろう)。津田梅子とともに女子英学塾(今の津田塾大学)を設立して幹事となる。北樺太石油会社(英: Northern Karafuto Oil Consession)の取締役を勤める。日本陸軍軍人の櫻井忠温は弟である。 | ||
7月31日生まれの人  1872年生まれの人 | ||
559 | 勝田主計 東京大学へ進学 | Wikipedia |
勝田 主計(しょうだ かずえ、明治2年旧暦9月15日(1869年10月19日)- 昭和23年(1948年)10月10日)は日本の大蔵官僚、政治家。同郷の俳人・正岡子規や海軍軍人・秋山真之の友人だった。 | ||
愛媛県立松山東高等学校から東京大学への進学者 全国の東京大学の出身者 | ||
10月19日生まれの人  1869年生まれの人 |
560 | 白川義則 | Wikipedia |
白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元年12月12日) - 1932年(昭和7年)5月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、栄典は勲一等功二級男爵。 | ||
1月24日生まれの人  1869年生まれの人 | ||
561 | 山路一善 | Wikipedia |
山路 一善(やまじ かずよし、明治2年3月13日(1869年4月24日)- 1963年(昭和38年)3月13日)は、明治から大正の大日本帝国海軍の海軍中将。兄に愛媛県師範学校長の山路一遊と、日本興業銀行副総裁の佃一予。夫人「すえ」は山本権兵衛の次女(財部彪夫人の実妹)。日本海軍での航空兵力の導入、整備に尽力し、「海軍航空の生みの親」と呼ばれる。 | ||
3月13日生まれの人  1869年生まれの人 | ||
562 | 秋山真之 | Wikipedia |
秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、慶応4年3月20日(1868年4月12日) - 大正7年(1918年)2月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。幼名は淳五郎(じゅんごろう)。 | ||
3月20日生まれの人  1868年生まれの人 | ||
563 | 浅岡満俊 慶應義塾大学へ進学 | Wikipedia |
浅岡 満俊(あさおか みつとし、1861年12月28日(文久元年11月27日) - 1936年(昭和11年)8月26日)は、日本の海軍軍人。海軍造船中将。 | ||
愛媛県立松山東高等学校から慶應義塾大学への進学者 全国の慶應義塾大学の出身者 | ||
12月28日生まれの人  1861年生まれの人 | ||
564 | 秋山好古 大阪教育大学へ進学 | Wikipedia |
秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日(1859年2月9日)- 昭和5年(1930年)11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。幼名は信三郎。 | ||
愛媛県立松山東高等学校から大阪教育大学への進学者 全国の大阪教育大学の出身者 | ||
1月7日生まれの人  1859年生まれの人 |
愛媛県立松山北高等学校の出身者
565 | 越智孝平 松山市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日 - 1968年(昭和43年)6月25日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。松山市長。 | ||
愛媛県立松山北高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 松山市の出身者 | ||
2月3日生まれの人  1889年生まれの人 |
高知県立高知小津高等学校の出身者
566 | 横山一郎 横須賀市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
横山 一郎(よこやま いちろう、1900年(明治33年)3月1日 - 1993年(平成5年)7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。1945年(昭和20年)9月2日、アメリカ海軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏文書調印式に出席した人物でもある。 | ||
高知県立高知小津高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 横須賀市の出身者 | ||
3月1日生まれの人  1900年生まれの人 | ||
567 | 大石保 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
大石 保(おおいし たもつ、1900年1月28日 - 1946年2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
高知県立高知小津高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1月28日生まれの人  1900年生まれの人 | ||
568 | 土居明夫 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
土居 明夫(どい あきお、1896年(明治29年)6月30日 - 1976年(昭和51年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
高知県立高知小津高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
6月30日生まれの人  1896年生まれの人 | ||
569 | 山本健児 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
山本 健児(やまもと けんじ、1895年(明治28年)9月20日 - 1975年(昭和50年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
高知県立高知小津高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月20日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
570 | 渋谷清見 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
渋谷 清見(しぶや きよみ、1895年9月27日 - 1985年2月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
高知県立高知小津高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
9月27日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
571 | 久野村桃代 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 - 1979年11月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
高知県立高知小津高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月22日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
572 | 山崎重暉 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1980年12月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
高知県立高知小津高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
1月21日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
573 | 沢田茂 高知市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日 - 1980年(昭和55年)12月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
高知県立高知小津高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 高知市の出身者 | ||
3月29日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
574 | 山下奉文 大豊町 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11月8日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。 | ||
高知県立高知小津高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 大豊町の出身者 | ||
11月8日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
575 | 永野修身 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
永野 修身(ながの おさみ、1880年(明治13年)6月15日 - 1947年(昭和22年)1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。千葉工業大学の創設者。 | ||
高知県立高知小津高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
6月15日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
576 | 大谷幸四郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
大谷 幸四郎(おおたに こうしろう、1872年8月23日(明治5年7月20日) - 1937年6月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
高知県立高知小津高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月23日生まれの人  1872年生まれの人 | ||
577 | 島村速雄 海軍兵学校卒へ進学 | Wikipedia |
島村 速雄(しまむら はやお、安政5年9月20日(1858年10月26日) - 大正12年(1923年)1月8日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功二級男爵。高知県出身。海南学校出身。二男は立花和雄(立花伯爵家を継承)。 | ||
高知県立高知小津高等学校から海軍兵学校卒への進学者 全国の海軍兵学校卒の出身者 | ||
9月20日生まれの人  1858年生まれの人 |
福岡県立育徳館高等学校の出身者
578 | 杉山元 北九州市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
杉山 元 (すぎやま げん/はじめ、1880年(明治13年)1月1日 - 1945年(昭和20年)9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将、陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。福岡県出身。 | ||
福岡県立育徳館高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 北九州市の出身者 | ||
1月1日生まれの人  1880年生まれの人 | ||
579 | 小川又次 | Wikipedia |
小川 又次(おがわ またじ、嘉永元年7月24日(1848年8月22日) - 明治42年(1909年)10月20日)は、明治時代の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。幼名・助太郎。 | ||
7月24日生まれの人  1848年生まれの人 |
580 | 奥保鞏 | Wikipedia |
奥 保鞏(おく やすかた、弘化3年11月19日(1847年1月5日) - 昭和5年(1930年)7月19日)は、明治の陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。 | ||
11月19日生まれの人  1847年生まれの人 | ||
581 | 小沢武雄 | Wikipedia |
小沢 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日(天保15年11月10日) - 1926年1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・直之丞。 | ||
12月19日生まれの人  1844年生まれの人 |
福岡県立小倉高等学校の出身者
582 | 板倉光馬 北九州市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
板倉光馬(いたくら みつま、1912年(大正元年)11月18日 - 2005年(平成17年)10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少佐。福岡県小倉市(現、北九州市)出身。 | ||
福岡県立小倉高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 北九州市の出身者 | ||
11月18日生まれの人  1912年生まれの人 |
福岡県立戸畑高等学校の出身者
583 | 山田良市 | Wikipedia |
山田 良市(やまだ りょういち、1923年(大正12年)9月3日 - 2013年(平成25年)2月27日)は、日本の海軍軍人及び航空自衛官、第15代航空幕僚長である。海軍兵学校第71期卒。海軍での最終階級は海軍大尉。航空自衛隊での最終階級は航空幕僚長たる空将。 | ||
9月3日生まれの人  1923年生まれの人 |
福岡県立東筑高等学校の出身者
584 | 小川陽一郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
小川 陽一郎(おがわ よういちろう、1941年12月11日没)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は中佐。福岡県出身。駆逐艦「早苗」や「如月」の艦長を務め、ウェーク島沖にて1941年12月11日に戦死した。 | ||
福岡県立東筑高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
12月11日生まれの人  1941年生まれの人 | ||
585 | 古野繁實 遠賀町 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
古野 繁実(ふるの しげみ、1918年(大正7年)5月10日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇「甲標的」艇長として真珠湾攻撃に参加し、戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍少佐。 | ||
福岡県立東筑高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 遠賀町の出身者 | ||
5月10日生まれの人  1918年生まれの人 | ||
586 | 三原朝雄 遠賀郡遠賀町 明治大学へ進学 | Wikipedia |
三原 朝雄(みはら あさお、1909年(明治42年)8月20日 - 2001年(平成13年)3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員、また文部大臣、防衛庁長官、総理府総務長官を歴任した。勲一等旭日大綬章(1986年)。北九州市議会議員の三原征彦は長男、衆議院議員の三原朝彦は次男にあたる。陸軍軍人の山縣初男は岳父である。 | ||
福岡県立東筑高等学校から明治大学への進学者 全国の明治大学の出身者 遠賀郡遠賀町の出身者 | ||
8月20日生まれの人  1909年生まれの人 | ||
587 | 松井太久郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
松井 太久郎(まつい たくろう、1887年12月3日 - 1969年6月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士22期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。 | ||
福岡県立東筑高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月3日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
588 | 出光万兵衛 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年11月9日 - 1964年7月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 スポーツキャスターの出光ケイは孫にあたる。 | ||
福岡県立東筑高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月9日生まれの人  1882年生まれの人 |
福岡県立修猷館高等学校の出身者
589 | 竹田五郎 | Wikipedia |
竹田 五郎(たけだ ごろう、1921年(大正10年)10月 - )は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、軍事評論家。最終階級は陸軍では陸軍大尉、航空自衛隊では統合幕僚会議議長たる空将。第14代航空幕僚長、第12代統合幕僚会議議長。 | ||
1921年生まれの人 | ||
590 | 岡部健二 | Wikipedia |
岡部 健二(おかべ けんじ、1915年(大正4年)4月5日 - )は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 | ||
4月5日生まれの人  1915年生まれの人 | ||
591 | 大蔵栄一 | Wikipedia |
大蔵 栄一(おおくら えいいち、1903年9月11日 - 1979年1月29日)は、日本の陸軍軍人。二・二六事件当時の革新派青年将校の中心的人物。 | ||
9月11日生まれの人  1903年生まれの人 | ||
592 | 古森善五郎 | Wikipedia |
古森 善五郎(こもり ぜんごろう、1901年 - 1959年)は、日本の外科学者、ドイツ陸軍の軍人(軍医)。 | ||
1901年生まれの人 | ||
593 | 桜井徳太郎 東京教育大学へ進学 | Wikipedia |
桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 - 1980年12月28日)は、日本の陸軍軍人、僧侶。最終階級は陸軍少将。法名、全覚。 | ||
福岡県立修猷館高等学校から東京教育大学への進学者 全国の東京教育大学の出身者 | ||
6月21日生まれの人  1897年生まれの人 | ||
594 | 長勇 | Wikipedia |
長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年6月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
1月19日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
595 | 原田義和 | Wikipedia |
原田 義和(はらだ よしかず、1895年8月1日 - 1973年6月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
8月1日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
596 | 原口初太郎 | Wikipedia |
原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1月29日 - 昭和24年(1949年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員、貴族院議員。 | ||
1月29日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
597 | 香椎秀一 | Wikipedia |
香椎 秀一(かしい しゅういち、1874年2月23日 - 1962年4月13日)は、大正~昭和期の日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍中将香椎浩平の兄。 | ||
2月23日生まれの人  1874年生まれの人 | ||
598 | 明石元二郎 福岡市 二松學舍大学へ進学 | Wikipedia |
明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) - 大正8年(1919年)10月26日)は明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。夫人は国子、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。 | ||
福岡県立修猷館高等学校から二松學舍大学への進学者 全国の二松學舍大学の出身者 | ||
8月1日生まれの人  1864年生まれの人 |
福岡県立明善高等学校の出身者
599 | 諫山春樹 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
諫山 春樹(いさやま はるき、1894年2月11日 - 1990年6月12日)は、日本の陸軍軍人。福岡県出身。陸軍中将。第17代台湾軍参謀長、その後第10方面軍参謀長。1945年10月25日、国民政府代表との降服式典に台湾総督安藤利吉とともに台湾総督府(日本)代表として出席し、任を終える。 | ||
福岡県立明善高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
2月11日生まれの人  1894年生まれの人 |
600 | 松下元 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
松下 元(まつした はじめ、1884年8月10日 - 1953年12月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校で教育に使われた「五省」の考案者として知られる。 | ||
福岡県立明善高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月10日生まれの人  1884年生まれの人 |
福岡県立伝習館高等学校の出身者
601 | 伊藤整一 みやま市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
伊藤 整一(いとう せいいち、1890年(明治23年)7月26日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。 | ||
福岡県立伝習館高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 みやま市の出身者 | ||
7月26日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
602 | 横山静雄 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
横山 静雄(よこやま しずお、1890年12月1日 - 1961年1月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
福岡県立伝習館高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
12月1日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
603 | 黒田重徳 陸軍士官学校卒へ進学 | Wikipedia |
黒田 重徳(くろだ しげのり、1887年10月25日 - 1964年4月30日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸軍中将。 | ||
福岡県立伝習館高等学校から陸軍士官学校卒への進学者 全国の陸軍士官学校卒の出身者 | ||
10月25日生まれの人  1887年生まれの人 |
福岡県立三池高等学校の出身者
604 | 中島正 | Wikipedia |
中島 正(なかじま ただし、1910年(明治43年)6月25日 - 1996年(平成8年)8月22日)は日本の海軍軍人、航空自衛官である。海軍では海兵58期卒業、最終階級は中佐。空自での最終階級は空将補。 | ||
6月25日生まれの人  1910年生まれの人 |
佐賀県立三養基高等学校の出身者
605 | 広尾彰 | Wikipedia |
広尾 彰(ひろお あきら、1920年(大正9年)1月 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇「甲標的」艇長として真珠湾攻撃に参加し、戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍大尉。 | ||
1920年生まれの人 | ||
606 | 松永市郎 | Wikipedia |
松永市郎(まつなが いちろう、1919年(大正8年)2月18日 - 2005年(平成17年)3月31日)は、日本の軍人。元海軍大尉。作家。 | ||
2月18日生まれの人  1919年生まれの人 | ||
607 | 板谷隆一 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
板谷 隆一(いたや たかいち、1911年(明治44年)8月20日 - 1991年(平成3年)9月1日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第60期)。海兵同期に鈴木實、進藤三郎など。第7代海上幕僚長、第5代統合幕僚会議議長。 | ||
佐賀県立三養基高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
8月20日生まれの人  1911年生まれの人 | ||
608 | 板谷茂 | Wikipedia |
板谷茂(いたや しげる 1909年(明治42年)7月10日 - 1944年(昭和19年)7月24日)は、日本の海軍軍人。海兵57期。最終階級は海軍中佐。 | ||
7月10日生まれの人  1909年生まれの人 |
佐賀県立佐賀西高等学校の出身者
609 | 野中国男 | Wikipedia未登録 |
野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日 - 1947年(昭和22年)4月28日)は、日本の陸軍軍人である。最終階級は陸軍少佐。正六位。インパール作戦に参謀として従軍、終戦後の復員前に不可解な自決を遂げた。 | ||
5月15日生まれの人  1913年生まれの人 | ||
610 | 石井利雄 | Wikipedia未登録 |
石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10日 - 2001年(平成13年)1月12日)は、日本の造船技師(専門は舶用内燃機関、造船の生産技術・品質管理などの生産管理全般)、海軍軍人(予備将校)、実業家である。最終階級は海軍中尉。従七位。とくに、戦時急造された海防艦の専門家であり、戦時中、御蔵型など40隻の海防艦を竣工させた。戦後は、南極観測船の建造にも関わった。ブロック工法(ブロック建造方式)による艦船建造の先駆者の一人。 | ||
4月10日生まれの人  1912年生まれの人 | ||
611 | 三上卓 | Wikipedia未登録 |
三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年3月22日 - 1971年10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。「青年日本の歌」(昭和維新の歌)の作詞者。 | ||
3月22日生まれの人  1905年生まれの人 | ||
612 | 藤井斉 | Wikipedia未登録 |
藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 - 1932年〈昭和7年〉2月5日)は、日本の海軍軍人。海兵53期卒。五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者で革命児と称された人物であり、また、日本海軍搭乗員最初の戦死者の一人である。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 | ||
8月3日生まれの人  1904年生まれの人 | ||
613 | 実松譲 | Wikipedia未登録 |
実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月20日 - 1996年(平成8年)12月20日)は、日本の海軍軍人、著作家。米内光政海相時代の大臣秘書官や、駐米大使館附武官補佐官を務め、太平洋戦争においては情報解析に実績を残す。海軍大佐で終戦を迎え11年半の巣鴨プリズン生活をおくった後は主として海軍関係の書を著し、刊行数は100点近くにおよんだ。 | ||
11月20日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
614 | 西久保豊成 | Wikipedia未登録 |
西久保 豊成(にしくぼ とよなり、明治33年(1900年)7月8日 - 昭和2年(1927年)12月4日)は、日本の官吏、陸軍軍人。陸軍歩兵少尉となるが病の為依願退職し内務省に勤める。官位は陸軍歩兵少尉従七位。 | ||
7月8日生まれの人  1900年生まれの人 | ||
615 | 辰巳栄一 | Wikipedia未登録 |
辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。 | ||
1月19日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
616 | 高柳儀八 | Wikipedia未登録 |
高柳 儀八(たかやなぎ のりはち、または たかやなぎ ぎはち、1891年(明治24年)4月17日 - 1973年(昭和48年)12月29日)は、日本の海軍軍人。戦艦「大和」第2代艦長。最終階級は海軍中将。 | ||
4月17日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
617 | 城島高次 | Wikipedia未登録 |
城島 高次(じょうじま たかつぐ、1890年(明治23年)6月20日 - 1967年(昭和42年)10月9日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
6月20日生まれの人  1890年生まれの人 | ||
618 | 牟田口廉也 | Wikipedia未登録 |
牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。 | ||
10月7日生まれの人  1888年生まれの人 | ||
619 | 吉田善吾 | Wikipedia未登録 |
吉田 善吾(よしだ ぜんご、明治18年(1885年)2月14日 - 昭和41年(1966年)11月14日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。海軍大臣、連合艦隊司令長官を歴任した。 | ||
2月14日生まれの人  1885年生まれの人 |
620 | 古賀峯一 | Wikipedia未登録 |
古賀 峯一(こが みねいち、1885年(明治18年)9月25日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。第28代連合艦隊司令長官。海軍乙事件にて殉職。最終階級は、殉職による特旨で元帥海軍大将。 | ||
9月25日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
621 | 真崎勝次 | Wikipedia未登録 |
眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 1966年10月15日)は、日本海軍の軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。 | ||
12月22日生まれの人  1884年生まれの人 | ||
622 | 百武源吾 | Wikipedia未登録 |
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である。 | ||
1月28日生まれの人  1882年生まれの人 | ||
623 | 真崎甚三郎 | Wikipedia未登録 |
眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、1876年(明治9年)11月27日 - 1956年(昭和31年)8月31日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲三等功四級。 | ||
11月27日生まれの人  1876年生まれの人 | ||
624 | 百武三郎 | Wikipedia未登録 |
百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1963年(昭和38年)10月30日)は、日本の海軍軍人、海軍大将、侍従長。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上唯一組の海軍大将兄弟である。 | ||
6月3日生まれの人  1872年生まれの人 | ||
625 | 安保清種 | Wikipedia未登録 |
安保 清種(あぼ きよかず、明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和23年(1948年)6月8日)は、明治期から昭和期にかけての日本海軍軍人。海軍大将。 | ||
10月15日生まれの人  1870年生まれの人 | ||
626 | 江頭安太郎 | Wikipedia未登録 |
江頭 安太郎(えがしら やすたろう、1865年3月9日(元治2年2月12日) - 1913年(大正2年)1月23日)は日本の海軍軍人。海軍中将従四位勲二等功三級。皇太子徳仁親王妃雅子は曾孫にあたる。 | ||
3月9日生まれの人  1865年生まれの人 | ||
627 | 大島駿 | Wikipedia未登録 |
陸軍軍人、毒ガス兵器の開発者、旧佐賀中在籍 | ||
628 | 橋本正勝 | Wikipedia未登録 |
陸軍軍人、第二総軍参謀作戦主任、東北方面総監(1968-) |
佐賀県立小城高等学校の出身者
629 | 吉田宗雄 | Wikipedia |
吉田 宗雄(よしだ むねお、1912年(大正元年)10月10日 - 1944年(昭和19年)12月30日)は、大日本帝国海軍の軍人。 | ||
10月10日生まれの人  1912年生まれの人 | ||
630 | 福地周夫 | Wikipedia |
福地 周夫(ふくち かねお、1902年(明治35年)6月5日 - 1996年)は、日本の海軍軍人。珊瑚海海戦及び南太平洋海戦に「翔鶴」運用長として参戦し、その被害の局限化に成功した海軍大佐である。戦後は著作家としても活動した。 | ||
6月5日生まれの人  1902年生まれの人 |
佐賀県立唐津東高等学校の出身者
631 | 青木大吉 唐津市 海軍経理学校へ進学 | Wikipedia |
青木 大吉(あおき だいきち、1896年7月2日 - 1994年1月12日)は、日本の公認会計士、税理士。大日本帝国海軍の軍人(最終階級は主計大佐)で、第二次世界大戦後は民間の会計士となり、東京虎ノ門、福岡(「第一公認会計士事務所」)、佐世保に事務所を開く。等松農夫蔵と現在のデロイト トウシュ トーマツの日本のもととなる監査法人事務所を創立した。日本の原価計算の祖と呼ばれる。 | ||
佐賀県立唐津東高等学校から海軍経理学校への進学者 全国の海軍経理学校の出身者 唐津市の出身者 | ||
7月2日生まれの人  1896年生まれの人 | ||
632 | 市丸利之助 | Wikipedia |
市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9月20日 - 1945年(昭和20年)3月26日)は、日本の海軍軍人である。最終階級は海軍中将(戦死による特進)。佐賀県東松浦郡久里村(現在の唐津市)出身。 | ||
9月20日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
633 | 原清 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
原 清(はら きよし、1889年5月2日 - 1976年8月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
佐賀県立唐津東高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
5月2日生まれの人  1889年生まれの人 |
佐賀県立佐賀商業高等学校の出身者
634 | 石丸進一 佐賀市 日本大学へ進学 | Wikipedia |
石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1945年5月11日)は、プロ野球選手(投手・内野手)、大日本帝国海軍軍人。 | ||
佐賀県立佐賀商業高等学校から日本大学への進学者 全国の日本大学の出身者 佐賀市の出身者 | ||
7月24日生まれの人  1922年生まれの人 |
長崎県立大村高等学校の出身者
635 | 福田雅太郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日(慶応2年5月25日) - 1932年6月1日)は、日本陸軍の軍人。陸士旧9期、陸大9期。栄典は従三位勲一等功三級、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダー(KCMG)[要出典]。最終階級は陸軍大将。 | ||
長崎県立大村高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
7月7日生まれの人  1866年生まれの人 |
長崎県立島原高等学校の出身者
636 | 村田重治 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
村田 重治(むらた しげはる、1909年(明治42年)4月9日 - 1942年(昭和17年)10月26日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死した。二階級特進により最終階級は海軍大佐。 | ||
長崎県立島原高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
4月9日生まれの人  1909年生まれの人 |
熊本県立熊本高等学校の出身者
637 | 城英一郎 | Wikipedia |
城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4月1日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵47期。最終階級は海軍少将。 | ||
4月1日生まれの人  1899年生まれの人 | ||
638 | 片倉衷 | Wikipedia |
片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18日 - 1991年(平成3年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍少将。戦後は大平商事会長。 | ||
5月18日生まれの人  1898年生まれの人 | ||
639 | 大森仙太郎 熊本市 | Wikipedia |
大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年10月3日 - 1974年12月24日)は、熊本県出身の日本海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍特攻部長を務めた。 | ||
熊本市の出身者 | ||
10月3日生まれの人  1892年生まれの人 |
640 | 野田謙吾 | Wikipedia |
野田 謙吾(のだ けんご、1891年(明治24年)4月22日 - 1961年(昭和36年)11月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
4月22日生まれの人  1891年生まれの人 | ||
641 | 上月良夫 | Wikipedia |
上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 1971年4月3日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。熊本県出身。陸士21期、陸大29期。 | ||
11月7日生まれの人  1886年生まれの人 | ||
642 | 安田銕之助 | Wikipedia未登録 |
陸軍軍人、神兵隊事件参加将校 | ||
643 | 岡嶋清熊 | Wikipedia |
岡嶋 清熊(おかじま きよくま)は熊本県出身の海軍軍人、海上自衛官。海将補。海軍兵学校(第63期)卒。最終階級は、海軍少佐、海将補。 |
熊本県立鹿本高等学校の出身者
644 | 松尾敬宇 山鹿市 | Wikipedia |
松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年(大正6年)7月21日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵66期。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。 | ||
山鹿市の出身者 | ||
7月21日生まれの人  1917年生まれの人 | ||
645 | 立花止 | Wikipedia |
立花 止(たちばな いたる、1903年(明治36年)3月29日 - 1954年(昭和29年)6月7日)は、日本の海軍軍人。米国駐在時代に情報活動に従事しFBIに逮捕され国外追放処分を受ける(立花事件)。最後の連合艦隊参謀の一人である。最終階級は海軍大佐。 | ||
3月29日生まれの人  1903年生まれの人 | ||
646 | 松田千秋 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月29日 - 1995年(平成7年)11月6日)は、日本の海軍軍人。海兵44期。戦艦「大和」第3代艦長。最終階級は海軍少将。 | ||
熊本県立鹿本高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
9月29日生まれの人  1896年生まれの人 |
熊本県立八代高等学校の出身者
647 | 加来止男 八代市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
加来 止男(かく とめお、1893年(明治26年)11月8日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。空母「飛龍」艦長をつとめ、ミッドウェー海戦で戦死した。 | ||
熊本県立八代高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 八代市の出身者 | ||
11月8日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
648 | 鍋島俊策 宇城市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - 1948年4月28日)は、日本の海軍軍人。海軍少将。 | ||
熊本県立八代高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 宇城市の出身者 | ||
9月10日生まれの人  1892年生まれの人 |
熊本県立天草高等学校の出身者
649 | 園田直 天草島 大阪歯科大学へ進学 | Wikipedia |
園田 直(そのだ すなお、1913年(大正2年)12月11日 - 1984年(昭和59年)4月2日)は、日本の政治家、陸軍軍人。挺進第1連隊第2中隊長等を務める。階級は陸軍大尉。戦後一町田村助役・同村長・を経て衆議院議員に当選、内閣官房長官・外務大臣・厚生大臣等を歴任。熊本県天草島出身。弟の幹男は陸軍少佐。後妻・よし子との間に生まれた長男の博之は内閣官房副長官・自由民主党衆議院議員。また後々妻・天光光との間に生まれた次男の直飛人は自身の議員秘書にしている。 | ||
熊本県立天草高等学校から大阪歯科大学への進学者 全国の大阪歯科大学の出身者 天草島の出身者 | ||
12月11日生まれの人  1913年生まれの人 |
熊本県立御船高等学校の出身者
650 | 西住小次郎 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月13日 - 1938年〈昭和13年〉5月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸士46期。最終階級は陸軍歩兵大尉。勲五等功四級。熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身。 | ||
熊本県立御船高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
1月13日生まれの人  1914年生まれの人 |
大分県立大分上野丘高等学校の出身者
651 | 永野茂門 | Wikipedia |
永野 茂門(ながの しげと、1922年(大正11年)6月28日 - 2010年(平成22年)1月4日)は、日本の陸軍軍人及び陸上自衛官。退官後は参議院議員(2期)を務めた。栄典は従三位勲二等旭日重光章。 | ||
6月28日生まれの人  1922年生まれの人 | ||
652 | 友永丈市 別府市、ミッドウェー海戦第一次攻撃隊隊長 | Wikipedia |
友永 丈市(ともなが じょういち、1911年(明治44年)1月9日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。海兵59期。ミッドウェー海戦に空母「飛龍」艦上攻撃機搭乗員として参加し、ミッドウェー島攻撃隊長を務め、その後の米空母「ヨークタウン」攻撃時に戦死。最終階級は海軍中佐。 | ||
別府市、ミッドウェー海戦第一次攻撃隊隊長の出身者 | ||
1月9日生まれの人  1911年生まれの人 |
大分県立大分舞鶴高等学校の出身者
653 | 安永航一郎 九州大学へ進学 | Wikipedia |
安永 航一郎(やすなが こういちろう、1962年1月13日 - )は、日本の漫画家。パロディや下ネタを扱った作品を多く手掛ける。また、同人サークル「沖縄体液軍人会」(おきなわたいえきぐんじんかい)を主宰しており、同人活動においては、自身の作風をより強めた形でアニメやゲーム作品などの二次創作物を発行している。 | ||
大分県立大分舞鶴高等学校から九州大学への進学者 全国の九州大学の出身者 | ||
1月13日生まれの人  1962年生まれの人 |
大分県立臼杵高等学校の出身者
654 | 木梨鷹一 臼杵市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
木梨 鷹一(きなし たかかず、1902年(明治35年)3月7日 - 1944年(昭和19年)7月26日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。太平洋戦争において日本海軍を代表する潜水艦長のひとり。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 | ||
大分県立臼杵高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 臼杵市の出身者 | ||
3月7日生まれの人  1902年生まれの人 |
大分県立杵築高等学校の出身者
655 | 豊田副武 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22日 - 1957年(昭和32年)9月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。最後となる第19代軍令部総長を務めた。 | ||
大分県立杵築高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
5月22日生まれの人  1885年生まれの人 | ||
656 | 堀悌吉 杵築市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年(明治16年)8月16日 - 1959年(昭和34年)5月12日)は日本の海軍軍人。大分県杵築市出身。 | ||
大分県立杵築高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 杵築市の出身者 | ||
8月16日生まれの人  1883年生まれの人 |
大分県立宇佐高等学校の出身者
657 | 草地貞吾 宇佐市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
草地 貞吾(くさち ていご、1904年5月28日 - 2001年11月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 | ||
大分県立宇佐高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 宇佐市の出身者 | ||
5月28日生まれの人  1904年生まれの人 | ||
658 | 豊田隈雄 杵築市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
豊田 隈雄(とよだ くまお、1901年(明治34年)12月13日 - 1995年(平成7年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 | ||
大分県立宇佐高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 杵築市の出身者 | ||
12月13日生まれの人  1901年生まれの人 | ||
659 | 三好輝彦 竹田市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
三好 輝彦(みよし てるひこ、1893年(明治26年)11月15日 - 1943年(昭和18年)6月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
大分県立宇佐高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 竹田市の出身者 | ||
11月15日生まれの人  1893年生まれの人 |
宮崎県立宮崎大宮高等学校の出身者
660 | 黒木剛一 宮崎市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
黒木剛一(くろき ごういち、1894年(明治27年)2月16日 - 1972年(昭和47年)5月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 | ||
宮崎県立宮崎大宮高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 宮崎市の出身者 | ||
2月16日生まれの人  1894年生まれの人 | ||
661 | 小沢治三郎 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
小沢 治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校37期生。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 | ||
宮崎県立宮崎大宮高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
10月2日生まれの人  1886年生まれの人 |
鹿児島県立鶴丸高等学校の出身者
662 | 山岡大二 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6日 - 1991年(平成3年)11月1日)は東京都出身の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は、海軍少佐、海将補。 | ||
鹿児島県立鶴丸高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月6日生まれの人  1913年生まれの人 | ||
663 | 野田毅 錦江町 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日)は、日本の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」実行の容疑者として逮捕・処刑された。 | ||
鹿児島県立鶴丸高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 錦江町の出身者 | ||
1912年生まれの人 | ||
664 | 有馬正文 日置市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
有馬 正文(ありま まさふみ、1895年(明治28)9月25日 - 1944年(昭和19)10月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 | ||
鹿児島県立鶴丸高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 日置市の出身者 | ||
9月25日生まれの人  1895年生まれの人 | ||
665 | 牧野四郎 日置市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 1945年8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 | ||
鹿児島県立鶴丸高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 日置市の出身者 | ||
4月18日生まれの人  1893年生まれの人 | ||
666 | 牛島満 鹿児島市 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
牛島 満(うしじま みつる、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将(中将から、戦死により即日大将に親任される)。鹿児島県鹿児島市出身。 | ||
鹿児島県立鶴丸高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 鹿児島市の出身者 | ||
7月31日生まれの人  1887年生まれの人 | ||
667 | 野村直邦 日置市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
野村 直邦(のむら なおくに、1885年(明治18)5月15日 - 1973年(昭和48)12月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。東條英機内閣の海軍大臣。 | ||
鹿児島県立鶴丸高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 日置市の出身者 | ||
5月15日生まれの人  1885年生まれの人 |
鹿児島県立甲南高等学校の出身者
668 | 橋口寛 | Wikipedia |
橋口 寛(はしぐち ひろし、1924年(大正13年)7月15日 - 1945年(昭和20年)8月18日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。太平洋戦争の末期、人間魚雷「回天」の搭乗員となるが出撃する機会を得ず、終戦後自決した。最終階級は海軍大尉。 | ||
7月15日生まれの人  1924年生まれの人 | ||
669 | 横山正治 鹿児島市、真珠湾攻撃における九軍神の一人 | Wikipedia |
横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月8日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍少佐。岩田豊雄(獅子文六)の小説「海軍」及びこれを原作とした映画「海軍」の主人公・谷真人のモデル。 | ||
鹿児島市、真珠湾攻撃における九軍神の一人の出身者 | ||
11月8日生まれの人  1919年生まれの人 | ||
670 | 千早猛彦 | Wikipedia |
千早 猛彦(ちはやたけひこ、1913年(大正2年)9月26日 - 1944年(昭和19年)6月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は、戦死による後二階級特進で海軍大佐。 | ||
9月26日生まれの人  1913年生まれの人 | ||
671 | 山本祐二 鹿児島市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月17日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)で戦死。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少将。 | ||
鹿児島県立甲南高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 鹿児島市の出身者 | ||
1月17日生まれの人  1903年生まれの人 | ||
672 | 入佐俊家 | Wikipedia |
入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月26日 - 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の海軍軍人(海兵52期卒)。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 | ||
4月26日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
673 | 内野信二 | Wikipedia |
内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争中に第二次遣独潜水艦作戦を完遂した伊号第八潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。 | ||
8月6日生まれの人  1900年生まれの人 | ||
674 | 加世田哲彦 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年(明治30年)11月11日 - 1971年(昭和46年)7月25日)は、日本の海軍軍人。成績優秀な将校であったが、神政龍神会の結成にかかわり、不敬罪に問われ失官となる。最終階級は海軍中佐。 | ||
鹿児島県立甲南高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
11月11日生まれの人  1897年生まれの人 |
鹿児島県立川辺高等学校の出身者
675 | 小園安名 南九州市 | Wikipedia |
小園 安名(こぞの やすな、1902年(明治35年)11月1日 - 1960年(昭和35年)11月25日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第51期卒業。最終階級は海軍大佐剥奪。 | ||
南九州市の出身者 | ||
11月1日生まれの人  1902年生まれの人 |
鹿児島県立川内高等学校の出身者
676 | 神重徳 出水市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日 - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。海軍兵学校48期生。 | ||
鹿児島県立川内高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 出水市の出身者 | ||
1月23日生まれの人  1900年生まれの人 |
鹿児島県立出水高等学校の出身者
677 | 山下耕作 京都大学へ進学 | Wikipedia |
山下 耕作(やました こうさく、1930年1月10日 - 1998年12月6日)は、日本の映画監督。時代劇・任侠映画を中心に、テレビ時代劇も演出してきた。鹿児島県阿久根市出身。鹿児島県出水高等学校・京都大学法学部卒業。愛称は同姓の軍人・山下奉文に因んで「将軍」。両者に姻戚関係はない。長男は映画監督の山下耕一郎、次男はテレビドラマの監督でテレビ映画制作会社「京都組」代表取締役の山下智彦。 | ||
鹿児島県立出水高等学校から京都大学への進学者 全国の京都大学の出身者 | ||
1月10日生まれの人  1930年生まれの人 |
鹿児島県立加治木高等学校の出身者
678 | 伊丹明 カリフォルニア州オークランド 東文化大学へ進学 | Wikipedia |
伊丹 明(いたみ あきら、1911年 - 1950年12月26日)は、日系アメリカ人二世のアメリカ陸軍軍人。アメリカ名はデイヴィッド・アキラ・イタミ(David Akira Itami)で、デイブ(Dave)とも呼ばれていた。 | ||
鹿児島県立加治木高等学校から東文化大学への進学者 全国の東文化大学の出身者 カリフォルニア州オークランドの出身者 | ||
1911年生まれの人 |
沖縄県立首里高等学校の出身者
679 | 当山全信 | Wikipedia |
当山 全信(とうやま ぜんしん、1910年(明治43年) - 1945年(昭和20年)1月23日)は、日本の海軍軍人。「伊48」潜水艦長として「回天」作戦中、米駆逐艦に乗艦を撃沈され戦死した。最終階級は海軍中佐。 | ||
1910年生まれの人 |
680 | 親泊朝省 陸軍士官学校へ進学 | Wikipedia |
親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)9月18日 - 1945年(昭和20年)9月3日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄県出身。大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官。 | ||
沖縄県立首里高等学校から陸軍士官学校への進学者 全国の陸軍士官学校の出身者 | ||
9月18日生まれの人  1903年生まれの人 | ||
681 | 渡名喜守定 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。 | ||
沖縄県立首里高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 | ||
2月5日生まれの人  1902年生まれの人 | ||
682 | 漢那憲和 那覇市 海軍兵学校へ進学 | Wikipedia |
漢那 憲和(かんな けんわ、1877年9月6日 - 1950年7月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。海軍兵学校27期卒。 | ||
沖縄県立首里高等学校から海軍兵学校への進学者 全国の海軍兵学校の出身者 那覇市の出身者 | ||
9月6日生まれの人  1877年生まれの人 |
沖縄県立那覇高等学校の出身者
683 | 稲嶺一郎 本部町 早稲田大学へ進学 | Wikipedia |
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。 | ||
沖縄県立那覇高等学校から早稲田大学への進学者 全国の早稲田大学の出身者 | ||
9月23日生まれの人  1905年生まれの人 |